2012年6月22日金曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(58)

イエメンにおけるペルシャ支配の終焉


 その後、ワハリズとペルシャ人はイエメンに居住し、今日、イエメンにいるアブナア族は、ペルシャ軍の生き残りの子孫である。アルヤートの侵入から、ペルシャ人の手によるマスルーク・イブン・アブラハの殺害と、アビシニア人の追放に至るまでの、アビシニア人のイエメン支配は七十二年間にわたった。継承した王子たちは四人で、アルヤート、アブラハ、ヤクスーム、マスルークである。

 イエメンのある岩には、昔にまでさかのぼる碑文が書かれている、と伝えられている。

 「ズィマールの王国はだれに所属する。

 高潔なヒムヤルに。

 ズィマールの王国はだれに所属する。

 邪悪なアビシニア人に。

 ズィマールの王国はだれに所属する。

 自由なペルシャ人に。

 ズィマールの王国はだれに所属する。

 商人のクライシュ一族に」。

ズィマールとは、イエメンあるいはサヌアのことである。

 サティーハと彼の仲間の予言が成就したとき、カイス・イブン・サアラバの一族のアルアーシャーは次のように詠んだ。

 「いかなる女も、アッズィービーが予言するような真実を予言したことはない」。アラブは、サティーハがラビーア・イブン・マスウード・イブン・マーズィン・イブン・ズィーブの息子であったことから、アッズィービーと呼んでいる

 伝承によればヒムヤルの王、ハッサーン・イブン・ティバーン・アスアドが、ジャディースを征伐するためヤマーマに遠征したとき、ジャディースにヤマーマという名の、三日行程先の人々を透視することができる女予言者がいた。彼女が敵の来襲を三日前に予告したにもかかわらず、それを信じなかったので、ジャディースはヒムヤル軍に滅ぼされた。百四十年先の未来を予言したアッズィービーはそのような女予言者よりも優れていた、という意味。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(57)

サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンの旅と、ワハリズのイエメン支配(4)


 タミーム族のアディーユ・イブン・ザイドル・ヒーリは、次のように詠んだ。

 「サヌアに次いで何があるというのか、

 惜しみなく贈り物を与えた王国の王がかつて暮らしていた。

 その建造者は、流れる雲にまで築き上げた、

 高い部屋は芳香を発した。

 山で囲まれて、敵の攻撃から守護され、

 その高さはよじ登ることもできない。

 麗しきは夜のフクロウの声だった、

 フルート奏者でさえそれに応えた。

 運命はそこにペルシャ軍をもたらした、

 騎士たちが列をなしてやって来た。

 彼らはラバに死を積んで運んできた、

 そばにラバの子を走らせて、

 王子たちが砦の上で見つけるまで、

 軍団が鉄の武器を光らせて、

 その日は、彼らが蛮族とヤクスームに呼びかけるときだった、

 逃げる者は呪われよ、と。

 その日はいまだに語り継がれている、

 しかしそれは、長い間威厳を保持して来た民族が滅んだ日であった。

 ペルシャ人が先住の民族にとって代わった、

 それは暗く、不気味な日であった。

 トゥッバアの高貴な息子たちのあと、

 ペルシャの将軍たちがそこに深く根を下ろした」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(56)

サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンの旅と、ワハリズのイエメン支配(3)


サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンは、次のように詠んだ。

 「人びとは二人の王が和平した、と思っていたが、

 和解について聞いていた人たちは、事態が非常に深刻であることに気づいた。

 我々は、マスルーク王子を惨殺し、砂を血で染めた。

 ワハリズは、誓った、

 捕虜と戦利品を獲得するまで酒を飲まない、と」。

 アブッ・サルト・イブン・アブー・ラビーアッ・サカフィーは、次のように詠んだ。

 「イブン・ズゥー・ヤザンのような者に、復讐させよう、

 敵のために、何年もの間、海で過ごした者に、

 旅の時がきたとき、彼はカエサル〔ローマ皇帝〕に会いに行った、

 だが、彼は目的を果たせなかった。

 そこで彼は向きを変え、十年後にキスラを訪ねた、

 命も金も惜しまず

 ペルシャ人を連れて戻るまで。

 私の命にかけて、そなたの行動はす速かった、

 なんと気高い軍団がやって来たのであろう、

 彼らのような男たちは見たことがない、

 貴族、貴公子、偉丈夫、射手たち

 ジャングルで幼獣を鍛えるライオンたち。

 曲げられた弓で矢を放った、

 輿の柱のように太い矢を、

 えじきを即死させ。

 そなたは、黒い犬たちに対して、ライオンを連れてきた、

 逃亡者たちは全土に散らばった。

 だから存分に飲め、王冠を被って、

 グムダーンの頂で、選んだ家の中で椅子にもたれながら。

 存分に飲め、彼らは死んだのだから、

 そして今日は長いローブを着て誇らしげに歩け。

 なんと高貴な行いであろう、

 バケツ二杯の水の混じったミルクではない、

 後で小便になってしまう」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(55)

サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンの旅と、ワハリズのイエメン支配(2)


 皇帝は、誉れ高い家系の出身で、老人の年齢に達したワハリズという名の男を司令官とした。彼らは八隻の船で出発したが、二隻が沈没し、六隻がアデンの浜に着いた。
 サイフは、彼が集められるすべての人々をワハリズの軍に結集させ、ワハリズに、「私の足は、あなたの足であり、我々は死ぬか、それとも征服するか、どちらかだ」、と呼びかけた。
 ワハリズは、「よし」、と応じた。イエメンの王、マスルーク・イブン・アブラハの軍隊が、彼らを迎え撃とうと出て、ワハリズは、息子の一人に戦闘の経験を積ませるため、戦いにやった。その息子が殺されてしまったので、ワハリズは激怒した。
 軍が攻撃の隊列を整えたとき、ワハリズは、「敵の王はどこにいる」、と尋ねた。彼らが、「象に乗って、王冠を被り、額に赤いルビーをつけた男が見えますか。あれが敵の王です」、と答えると、ワハリズは、「彼に構うな」、と言った。
 彼らがしばらくの間待っていると、ワハリズは、「今、王は何に乗っているのだ」、と尋ねた。彼らが、「馬に乗っています」、と答えると、またしばらくの間待って、そして同じ質問を繰り返したので、彼らは、「ラバに乗っています」、と答えた。
 するとワハリズは、「間抜けめ。王が腰抜けなら、その王国も腰抜けだ。私がこれから彼を射る。もし、敵の兵士たちが動かないのが見えたならば、私がしくじったのであろうから、私が攻撃命令を下すまで、決して動いてはならない。だが、もし、兵士たちが彼の周りを取り囲むのが見えたならば、私がうまく射止めたのに違いないであろうから、すぐに襲いかかれ」、と命令した。
 ワハリズが、(ほかのだれにも引くことができなかったと伝えられている)弓を引き、矢を射放つと、矢はマスルークの額のルビーを割って首の後ろに抜けた。
 マスルークは、ラバから落ち、アビシニア人が周りに集まった。そこへペルシャ人が襲いかかって、アビシニア人は逃げまどい、散々に打ち殺された。
 ワハリズは、サヌアに向かって進撃し、城門に達すると、軍旗を決して降ろさないように命令し、城門を破壊して、軍旗を掲げて入城した。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(54)

サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンの旅と、ワハリズのイエメン支配(1)


 イエメンの民が長い間、アビシニア人の抑圧に耐えていたとき、アブー・ムッラとして知られていたサイフ・イブン・ズゥー・ヤザンというヒムヤルの民が、ビザンチンの皇帝に会いにいき、彼らの苦難を訴え、アビシニア人を追い出し、イエメンを皇帝が統治するように懇願した。彼は、皇帝が望むだけ軍隊を派遣するように願い、イエメンの王国を皇帝に与えると約束した。

 ビザンチン皇帝がこの要請を無視したので、彼は、イラクのアルヒーラとその周辺をキスラ〔ササーン朝ペルシャ皇帝の呼称〕の総督として支配していたアンヌーマーン・イブヌル・ムンズィルと会った。
 彼がアビシニア人による苦難を訴えると、アンヌーマーン・イブヌル・ムンズィルは、毎年キスラを公式に訪問しているので、それまでアルヒーラにとどまってはどうか、と彼に提案した。
 そして、イブヌル・ムンズィルは、彼をキスラに紹介した。皇帝はいつも、王冠を収蔵していた謁見の大広間に座っていた。伝えられるところによると、王冠は巨大な穀物計量器のようであり、金と銀の上にルビー、パール、トパーズが散りばめられて、大広間の丸天井から黄金の鎖でつり下げられていた。
 王冠がそんなに重かったので、首で支えられなかったのである。皇帝は王座に就くまで、覆いで隠されていた。皇帝の頭が王冠の中に入れられ、王座に座った姿勢が安定したときに、覆いが取り外された。初めて謁見した者はだれでも、あまりの尊厳さに、思わずひざまずいた。サイフ・イブン・ズゥー・ヤザンも、皇帝の前にひざまずいた。

 彼は、「おお、陛下、略奪者が我らの国を奪いました」、と訴えた。キスラが、「それはいずれの略奪者か、アビシニア人か、それともシンド人か」、と聞くと、彼は、「アビシニア人です」、と答え、「私は、陛下に助けを求め、我らの国の王位に就いて頂くためにやってきました」、と懇願した。
 皇帝は、「そなたの国はあまりに遠く、余を引きつけるものも、ほとんどない。余は、ペルシャ軍をアラビアで危険にさらすことはできないし、そうしなければならない理由もない」、と答え、彼に一万ディルハムの銀貨を贈り、豪華なローブを着せた。すると、彼は外に出ていき、銀貨を人びとにばらまいた。
 これを聞いた皇帝は、それを異常な行為と考えて、彼に使いを遣って、「そなたは、皇帝の贈り物を捨てようというのか」、と尋ねさせた。彼は、「私にとって、銀が何の役に立ちましょう。私がやって来た国の山々は、金と銀以外の何ものでもありません」、と答えた。
 彼は、皇帝の強欲さを刺激するために、そう言ったのである。これを聞いたキスラは、助言者たちを集め、サイフと彼の企てについて意見を求めた。助言者の一人が皇帝に、次のように促した。
 「牢獄の中に死を宣告された者たちがおります。陛下が彼らを彼と共に派遣し、彼らが殺されたとしても、それはもともと陛下が彼らに定められた運命です。一方、もし彼らが彼の国を征服するならば、陛下はその国を帝国の領土に加えることができます」。
 この助言を受けた皇帝は、牢獄に入れられていた八百人の男たちを派遣した。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(53)

象の物語に言及している詩(3)


 ターリブ・イブン・アブー・ターリブ・イブン・アブドゥル・ムッタリブは、次のように詠んだ。

 「お前はダーヒスの戦いで何が起きたか知っているか、

 それからアブー・ヤクスームの軍が、道を覆ったときのこと。

 唯一、実在される主の助けがなかったならば、

 お前は自らの命を助けることはできなかったであろう」。

 六世紀半ば過ぎのころ、北アラビアのアブス族はアラブ最速とうたわれた駿馬ダーヒスを所有していた。兄弟部族のズビヤーンは、彼らが保有するガブラの方がダーヒスより速いと自慢して競馬を挑み、ズビヤーン部族員の不正行為によってガブラが勝利したことから抗争が始まった。この部族戦争は、七世紀初頭まで数十年間継続した。

 アブッ・サルト・イブン・アブー・ラビーアッ・サカフィーは、象とイブラヒームの純正な信仰に言及して、次のように詠んだ。

 「我らが主のしるしは輝いている。

 不信者以外、疑う者は誰もいない。

 夜と昼は創造され、すべてが極めて明白であり、

 応報には狂いがない。

 そして慈悲深い神はその日を啓示された、

その光がどこまでもとどく太陽によって。

 神はアルムガンミスで象をしっかりと抑止された、

 あたかも腱を切断されたかのように、地に伏せるまで。

 鼻は輪に巻かれ、動くことなく横たえられた、

 カブカブ山から、岩石が飛び出したとき。

 周りにはキンダの諸王、戦士たち、強大な鷹が戦いに集まった。

 彼らは戦争を放棄し、まっしぐらに逃走した、

 一人残らず、すねを砕かれて。

 復活の日に、神が一瞥されれば、

 唯一の神への純正な信仰以外のあらゆる邪教が地獄に落とされる」。

 アブラハが死ぬと、息子のヤクスームがアビシニア人の王位に就いた。ヤクスーム・イブン・アブラハが死ぬと、その弟のマスルーク・イブン・アブラハが、イエメンのアビシニア人を支配した。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(52)

象の物語に言及している詩(2)


 サイフィーという名の、アブー・カイス・イブヌル・アスラトル・アンサーリーユ・ハトミーは、次のように詠んだ。

 「それは神の御業であった、アビシニアの象の日のこと。

 彼らは前進させようとしたが、動かなかった、

 彼らはかぎ針を横腹に打ち込んだ、

 彼らは鼻を裂き、引きちぎった。

 彼らはナイフを鞭に代えて使った。

 それを背に打つと傷ついた。

 象は回って、来た方角に向いた。

 そこにいた者たちは、不義の罪を負わされた。

 神は、風を送って彼らの頭上から小石を降らせられた、

 すると彼らは子羊のように押し合った。

 彼らの神官は耐えるようにしかりつけた、

 だが彼らは羊のように泣き叫んだ」。

またアブー・カイスは、次のように詠んだ。

 「立て、そして汝の神に祈れ、そして触れよ、

 谷に建つこの神殿の隅々に。

 神は確証させる試練を軍の指導者に与えたもうた、

 アブー・ヤクスーム〔アブラハ〕の日に。

 彼の騎兵は平原に位置し、

 彼の歩兵は遠くの丘の道にいた。

 玉座の主の助けが汝にとどいたとき、

 主の軍団は彼らを撃退した、

 彼らは打ちのめされ、ほこりで覆われた。

 彼らはしっぽを巻いて逃走したが、

 ほんのわずかを除いて

ほとんど祖国へ帰りつく者はなかった」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(51)

象の物語に言及している詩(1)


 神がアビシニア人をマッカから撃退し、彼らを罰せられたとき、全アラブは、クライシュ一族の名誉を称賛して、「彼らは神の民である。神は彼らのために戦い、彼らの敵の攻撃を撃退してくださった」、と言った。彼らはこの事件を題材にして、多数の詩を詠んだ。そのような詩を詠んだ者たちの一人である、アブドッラー・イブヌッ・ズィバリ・イブン・アディーユ・イブン・カイス・イブン・アディーユ・イブン・サアド・イブン・サハム・イブン・アムル・イブン・ホサイス・イブン・カアブ・イブン・ルアイイ・イブン・ガーリブ・イブン・フィフルは、次のように詠んだ。

 「マッカの谷から退け、

 いにしえより、その聖地は侵害されたことはない。

 その地が聖別されたとき、シリウスは創造されていなかった。

 いかに強大な者であってもその地を攻撃した者はいない。

 アビシニアの司令官に何を見たか聞け。

 何が起きたかを知る者は、無知な者に教えるであろう。

 六万の男たちが家に帰らなかった。

 帰っても病が癒えることはなかった。

 アードとジュルフムが彼らの前にマッカにいた。

 神は、その地をあらゆる被造物の上に定められた」。

 「帰っても病が癒えることはなかった」、というのは、マッカで襲撃されて兵士たちに運ばれて帰り、サヌアで死んだアブラハに言及した言葉である。

2012年6月16日土曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(50)

象と暦調節師の物語(8)


彼らは退却の途上、道端で倒れ続け、水飲み場に至るたびに悲惨な死を遂げた。アブラハは身体を蝕まれ、彼らに運ばれて行くと、指が一本ずつ落ちていった。指があったところには、醜いはれ物ができ、膿みと血がにじんで、彼らがサヌアについたとき、アブラハは、小さなひな鳥のようになっていた。彼らは、彼が死んだとき、心臓が身体から飛び出した、と主張している。

 これは西暦五七〇年ころの出来事と伝えられている。この象の年に預言者が誕生した。

 ヤアクーブ・イブン・ウトゥバが私に語ったところによれば、その年は、アラビアで初めて、はしかと天然痘が発生した年で、また、初めて苦い薬草が生えるようになった年でもあった、と伝えられている。

 神が使徒ムハンマドをお遣わしになったとき、クライシュ一族の土地とその永続性を保持するために、アビシニア人を撃退なされた神の慈悲と慈愛をとりわけ詳述されている。「汝の主が象の衆をどのようにあしらいたもうたか、汝は、見なかったか。主は、その企みを壊滅させたもうたではないか。主は、その上に群れなす鳥を遣わして、焼き煉瓦のつぶてを投げつけ、彼らを、食い荒らされた茎のようにしたもうた」(一〇五章)。

 また、さらに、「クライシュ族の安全確保のために、冬および夏の隊商の安全確保のために、彼らをして、この神殿の主を崇めしめよ。彼らの飢えを防いで食べ物を与え、恐怖を除いて安んじさせたもうお方を」(一〇六章)、彼らが受け入れるのならば、神のご意志によって、彼らの地位が変わることはない。

 アブドッラー・イブン・アブー・バクルが、アブドッ・ラハマーン・イブン・サアド・イブン・ズラーラの娘であるアムラから聞いて、私に語ったところによれば、アーイシャは、「私は、目と足の不自由な象の騎士と象使いが、マッカで、食べ物を乞うて歩いているのを見た」、と言った。

 アムラ・ビント・アブドッ・ラハマーンは、前出のアブー・バクル・イブン・ムハンマドの伯母であり、神の使徒の妻アーイシャの友人だった。アブー・バクルは、アムラがアーイシャから聞いた使徒の伝承を息子のアブドッラーに伝達した。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(49)

象と暦調節師の物語(7)


 それからアブドゥル・ムッタリブは、カアバの扉の取っ手を放して、アブラハがマッカを占領して何をするかを見張ろうとして、クライシュ一族の仲間たちと一緒に山の頂に登って防御態勢をとった。
 朝になってアブラハは、マッカに入る態勢を整え、象に戦闘態勢をとらせ、軍隊を整列させた。
 彼は、カアバを破壊した後に、イエメンに帰るつもりであった。マハムードと名付けられた象をマッカの方向に向けたとき、ヌファイル・イブン・ハビーブがすばやく象のそばに駆け寄り、耳をつかんで、「マハムードよ、ひざまずくか、あるいはお前が来たところにすぐに引き返せ、お前は神の聖地にいるからだ」、とささやいた。
 耳から手を放すとマハムードはひざまずき、それからヌファイルは、山の上をめざして全速力で走った。戦士たちが立たせようと鞭打ったが、マハムードは立ち上がらなかった。
 彼らは、鉄の棒で頭をたたき、かぎ針で下腹を引き裂いたが、無駄だった。彼らがイエメンの方に向けると、象はすぐに立ち上がって動きはじめた。彼らが北に向けても、東に向けても同じように動き始めた。ところが、マッカに向けさせるやいなや、すぐにひざまずいてしまった。

 さらに神は、海の方からツバメとムクドリのような鳥を飛ばせ、鳥はみな、豆のような石をくちばしに一つくわえ、爪に二つつかんで、これを彼らの頭上に降らせた。この石に撃たれた者は死んだが、皆が撃たれたわけではなかった。彼らは、われ先に退却しはじめ、ヌファイルに、イエメンに帰る道を案内するように叫んだ。神が彼らに下された天罰を見たとき、ヌファイルは、次のように詠んだ。

 「神に追われている者が、どこに逃れようというのか、

 アルアシュラムは、征服者ではなく、征服された者である」。

ヌファイルは、付け加えて詠んだ。

 「ごきげんよう、ルダイナ、

 お前は、今朝、我らの目を楽しませてくれる。

 もしお前が見たなら、だがお前は見ることはない、ルダイナよ、

 我らが、アルムハッサブのそばで見たものを、

 お前は私を許し、私の行為を称賛するだろう、

 お前は過ぎ去ったことにいらだつことはないだろう。

 私は鳥を見たとき、神を称えた、

 そして石が我らの頭上に落ちないかと恐れた。

 みながヌファイルに頼んでいた、

 あたかも私がアビシニア人に借りがあるかように」。

 マッカとミナーの間にある地名。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(48)

象と暦調節師の物語(6)


 何人かの博識者は、ホナータが使いに来て、アブドゥル・ムッタリブがアブラハに会いに行ったとき、当時のバクル族の族長であるヤアムル・イブン・ヌファーサ・イブン・アディーユ・イブヌッ・ドゥウイル・イブン・バクル・イブン・マナート・イブン・キナーナと、ホザーイル族の族長であるホワイリド・イブン・ワースィラがアブドゥル・ムッタリブと共に同行した、と主張している。それによれば、彼らは、アブラハがカアバを破壊せずに撤退すれば、低地〔ティハーマ〕の牛の三分の一を彼に贈る、と提案したが、彼はこれを拒否したという。そうであったか、そうではなかったか、それは神がご存知である。いずれにせよ、アブラハは、アブドゥル・ムッタリブに、略奪した二百頭のラクダを返した。

 アブラハと別れてクライシュのところへ戻ると、アブドゥル・ムッタリブは、彼らに報告し、アブラハの軍の侵攻を警戒して、マッカから退いて、山頂や山道で防御態勢をとるように指令した。アブドゥル・ムッタリブは、カアバの扉の取っ手を握りしめ、クライシュ一族の有力者と共に、アブラハと彼の軍隊からお守りくださるようにと神に懇願して祈り続けた。取っ手を握りしめながら、アブドゥル・ムッタリブは次のように祈った。

 「おお、神よ、男は自分の住まいを守ります、主は主の住み家をお守りください。

 彼らの十字架と企みが、あしたに、主の御業に打ち勝ちませんように」。

 イクリマ・イブン・アーミル・イブン・ハーシム・イブン・アブド・マナーフ・イブン・アブドッ・ダーリ・イブン・クサイイは、次のように詠んだ。

 「おお、神よ、アルアスワド・イブン・マクスードに、

 首輪を付けたラクダを奪った者に、屈辱を与えたまえ。

 ヒラーとサビールの間で、そして砂漠で、

 自由に草をはむべきラクダを閉じ込めて、

 黒い蛮族に引き渡した者に、

 彼から主の恩寵を取り上げたまえ、おお神よ、

 主こそ称賛するにふさわしい御方であられるからには」。

 マッカの北東郊外にある丘の名。神の使徒はここの洞窟にこもっていたとき、啓示を授けられ始めた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(47)

象と暦調節師の物語(5)


 そこで、アブドゥル・ムッタリブは、息子の一人を伴ってアブラハの幕営に行き、友人であったズゥー・ナフルに面会を求めた。彼は監禁されているズゥー・ナフルに会い、この困難のために、何か助けになってくれないか、と頼んだ。
 ズゥー・ナフルは、「王の捕虜となって、いつ殺されるか分からない男が、いったい何の役に立つというのだろうか。私は何も助けてやることはできないが、ただ、象使いのウナイスが私の友達だから、彼のところに使いを遣って、あなたが王に面会する許可を求めてくれるように頼んで、あなたの問題を彼に託すよう全力を尽くしましょう。だから、あなたが適当と考えることを伝えなさい、そうすれば、もし彼ができるのであれば、彼はあなたを王にとりなしてくれるでしょう」、と答えた。
 それからズゥー・ナフルは、ウナイスに使いを遣って、「王は、クライシュ一族の族長で、平地の人間、山の頂の動物を養う、マッカの泉の主人であるアブドゥル・ムッタリブのラクダ二百頭を略奪したので、彼はいまここに来ている。だから、彼が王に面会する許可を求めて、できる限り彼を助けてやってくれないか」、と伝えた。
 ウナイスは、「そうしましょう」、と言って、同じ言葉を王に繰り返し、アブドゥル・ムッタリブが、緊急の問題について話し合うために、王に面会を願っている、と付け加えた。アブラハは、面会を許可した。
 アブドゥル・ムッタリブは、これまで見たこともないほど印象的で、整った顔立ちの、威厳のある人物であったので、アブラハは彼に会うと最も丁重に扱い、彼を自分の下座に座らせようとしなかった。
 王は、王座に彼と並んでいるところをアビシニア人に見せることはできなかったので、王座から降りて、じゅうたんの上に座って、彼をそのそばに座らせた。通訳に彼が何を望んでいるかを聞かせると、答えは、王が奪った二百頭のラクダを返してほしい、ということだった。
 アブラハは通訳に、「会ったとき、お前は余を大いに喜ばせたが、お前が言ったことを聞いて余は大いに落胆した。お前は、余が奪った二百頭のラクダのことについて余と話すことを願い、余が破壊するためにやって来たお前と、お前の父祖の信仰については、何も語ろうとはしないのか」、と答えさせた。
 アブドゥル・ムッタリブは、「私はラクダの主にすぎない。カアバの主は天にいらっしゃり、カアバをお守りになるだろう」、と答えた。王が、「カアバの主は、余に対抗してこれを守ることができない」、と言うと、彼は、「それはやってみなければ分からない、私のラクダを返してほしい」、と答えた。

2012年6月12日火曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(46)

象と暦調節師の物語(4)


 アラートについていえば、それは、ちょうどカアバが崇拝されているように、ターイフの人びとが崇拝していた神殿であった。彼らは、アブー・リガールに、アブラハをマッカまで案内させようとしたが、〔マッカから約三㌔の〕アルムガンミスにまで至るとアブー・リガールは、死んでしまい、アラブは彼の墓に石を投げた。これは、アルムガンミスの人々がいまだに石を投げるお墓である。

 そこからアブラハは、アビシニア人のアルアスワド・イブン・マクスードと何人かの騎兵をマッカに派遣し、イブン・マクスードは、ティハーマ族やそのほかのクライシュ一族の部族からの略奪品をアブラハに送り、そのなかにクライシュ一族の族長であったアブドゥル・ムッタリブ・イブン・ハーシム〔神の使徒の祖父〕が所有する二百頭のラクダが含まれていた。当初、聖地マッカのクライシュ、キナーナ、ホザーイル、ほかの諸部族は、戦闘を企てたが、対抗するだけの戦力を彼らが持っていないことを認識して、この考えを放棄した。

 アラビア半島南西、イエメンより北の紅海沿岸地方をティハーマという。

 アブラハは、その国の一番の名士を探し出し、彼に、王は戦争するためにやって来たのではなく、ただカアバを破壊するためだけに来たのだ、というメッセージを伝えるように命令して、ホナータ・ヒムヤリーをマッカに派遣した。もしマッカの人びとが無抵抗ならば流血の理由は全くない、したがって、もしその名士が戦争を回避しようと望むのならば、ホナータは、彼を連れて戻らねばならない。マッカに着くと、アブドゥル・ムッタリブ・イブン・ハーシム・イブン・アブド・マナーフ・イブン・クサイイが、最も有力な名士であることを知らされたので、ホナータは彼のもとへ行って、アブラハのメッセージを伝えた。アブドゥル・ムッタリブは、「我々は、王に対抗する力を持っていないので、戦いを望んでいないことは、神に誓いましょう。ここはアッラーの聖域で、慈悲深い神の友イブラヒームの神殿である(あるいはその趣旨の言葉を使った)。もし神が王に対抗してそれを守るのならば、それは神の神殿で聖域である。もし神がその力で王の望み通りにさせるのであれば、我々は神殿を守ることができない」、と答えた。ホナータは、彼を連れて戻るように命令されていたため、「そなたは、アブラハ様のもとへ行かなければならない」、と言った。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(45)

象と暦調節師の物語(3)


 アブラハは、マッカに向かって進軍し、カスアム〔族の支配地〕というところに至ると、ヌファイル・イブン・ハビーブ・アルカサアミが、その地の二つの部族であるシャハラン族とナーヒス族やそのほかのアラブ族をまとめて、アブラハに敵対した。戦闘でヌファイルは敗北し、捕虜になった。アブラハが彼を殺そうとすると、ヌファイルは、「殺さないでください、おお、王よ、私がアラブの土地で案内役を務めますから。ここに私の二つの腕、すなわちカスアムの二つの部族、シャハランとナーヒスがおり、彼らはあなたの命令に従います」、と言った。アブラハは彼も助けた。

 アブラハが、彼を道案内にしてターイフに着くと、マスウード・イブン・ムアッティブ・イブン・マーリク・イブン・カアブ・イブン・アムル・イブン・サアド・イブン・アウフ・イブン・サキーフが、サキーフの一族と共にアブラハを出迎えた。サキーフの名は、カスィーイ・イブヌン・ナービト・イブン・ムナッビヒ・イブン・マンスール・イブン・ヤクドゥム・イブン・アフサー・イブン・ドゥウミー・イブン・イヤード・イブン・ニザール・イブン・マアッド・イブン・アドナーン、と言った。ウマイヤ・イブン・アブー・サルトッ・サカフィーは、次のように詠んだ。

 「我が部族イヤードは、近くにいるのだろうか、

 あるいは、彼らはとどまっているのだろうか、

 彼らのラクダは、やせているというのに。

 彼らが進むとき、イラクの広大な平原は彼らものとなる、

 また彼らは読み書きもする」。

また彼は、次のようにも詠んだ。

 「ルバイナよ、もしお前が私は誰であるか、そして私の系譜を問うのであれば、

 確かな真実を聞かせよう。

 我らはアンナービト、すなわちカスィーイの父、

 マンスール、すなわち我らが父祖、ヤクドゥムの息子に属す」。

 彼らは、アブラハに言った。「おお、陛下、我らはあなたの従順で役に立つ召使です。我らはあなたと仲たがいしていないし、我らの神殿であるアラートは、あなたが求めているものではありません。あなたが求めているのは、マッカのカアバで、我々はあなたにそこまでの道案内を付けましょう」。そこでアブラハは、彼らを害することなく、そこを去った。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(44)

象と暦調節師の物語(2)


 フィラース・イブン・ガンム・イブン・サアラバ・イブン・マーリク・イブン・キナーナ族の、ウマイル・イブン・カイス・ジャズルッ・ティアーンは、暦の調節を自慢して、即興で次のように詠んだ。

 「マアッドは、我らが、最も名誉あり、

高貴な父祖をもっている部族であることを知っている。

 誰が我らの復讐を逃れたというのか、

 我らがいらつかせなかった者がいたというのか。

 我らは、世俗を神聖とする

 マアッドの暦調節師ではないのか」。

 キナーナ族の一人が、コッライスに出向き、そこで排泄行為をして帰った。アブラハはこれを耳にして、この冒涜行為を働いたのは、アラブ族が巡礼に行っているマッカのカアバを所有する一族の者であり、巡礼先をマッカからコッライスに変えようとするアブラハの宣言に怒り、コッライスが崇拝する価値のないことを示そうとしてやったことが分かった。

 激怒したアブラハは、マッカに行ってカアバを破壊することを誓った。アブラハは、アビシニア人に戦争の準備を命令し、準備が整うと、象を一頭連れて進軍を始めた。この知らせはアラブを警戒と不安に陥れた。アブラハが神の神聖な家であるカアバを破壊しようとしていることを知って、彼らは戦うことを決意した。

 ズゥー・ナフルという名の、イエメンの名家の指導者が、彼の一門と、彼に従うアラブ族を集めて、アブラハと戦い、神の神聖な家に対する攻撃と破壊を阻止しようとした。かなりの人数が集まったが、戦闘で彼らは敗走する結果となり、ズゥー・ナフル自身が捕虜となって、アブラハの前に突き出された。アブラハが、彼を殺してしまおうとすると、彼は、自分が死んでしまうより、生きていた方がもっとアブラハの役に立つだろう、と言って助命を懇願した。アブラハは、彼の命を助けたが、彼に足かせをはめて監禁した。アブラハは、情け深い人であった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(43)

象と暦調節師の物語(1)


 アブラハは、そのころ、世界のどこにも存在しなかったような大聖堂、コッライスを、サヌアに建てた。彼はアンナジャーシィに手紙で、「おお、陛下、私は、主人のために教会を建てました。以前のいかなる王にも建てられたことのないような教会を建てました。私は、アラブが巡礼の方向をこのコッライスに変えるまで、休むことはないでしょう」、と書いた。アラブがこの手紙について聞き及んだとき、一人の暦調節師が、これに憤った。彼は、フカイム・イブン・アディーユ・イブン・アーミル・イブン・サアラバ・イブヌル・ハーリス・イブン・マーリク・イブン・キナーナ・イブン・ホザーイマ・イブン・ムドゥリカ・イブン・イルヤース・イブン・ムダルの部族の者であった。暦調節師は、〔イスラーム以前の〕無知の時代、月を変更することを生業としていた。彼らは、ある神聖月を世俗月とすると、ある世俗月を神聖月として、暦を調節していた。これについて神は、コーランで次の啓示を下されている。「神聖月の変更は背信行為の増加にすぎない。背信者どもはそのために踏み迷うのである。彼らは、ある年はこれを許されたものとし、ある年はこれを禁じられたものとして、神が禁じたもうた月の数だけは合わせたり、神が禁じたもうた月を許されたものとしたりする」(九章三七節)。

 暦調節を最初にアラブに取り入れたのは、アルカランマスであった。アルカランマスの名は、ホザーイファ・イブン・アブド・イブン・フカイム・イブン・アディーユ・イブン・アーミル・イブン・サアラバ・イブヌル・ハーリス・イブン・マーリク・イブン・キナーナ・イブン・ホザーイマといった。ホザーイファの息子アッバード、その息子のカラア、その息子のウマイヤ、その息子のアウフと暦調節師は引き継がれ、アウフの息子であるアブー・スマーマ・ジュナーダ・イブン・アウフのときに、イスラームの時代となったため、彼が最後の暦調節師になった。

イスラーム以前、巡礼が終わるとアラブでは、暦調節師のもとに集まるのを常とし、彼は、ラジャブ〔七月〕、ズルカアダ〔十一月〕、ズルヒッジャ〔十二月〕、アルムハッラム〔一月〕の四神聖月を宣言した。もしある月を自由にしたいときには、彼はアルムハッラムを世俗月と宣言し、神聖月の数をそろえるため、サファル〔二月〕を神聖月とした。もしアラブが、〔復讐や略奪のために〕マッカから帰ることを望むと、彼は立ち上がって、「おお、神よ、私は(神聖月とした)サファルを彼らのために解き放ちました。そして神聖月を来年まで延期しました」、と宣言するのだった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(42)

アブラハはいかにしてイエメンを支配し、アルヤートを殺したか


 アルヤートがしばし、イエメンを支配した後、アブラハが彼の権力に挑み、アビシニア人は二つの党派に分裂して内紛が始まった。戦闘が始まろうとしたその時、アブラハは、アルヤートに使いを遣り、戦士たちの同士討ちを避けて、一騎打ちによって争いに決着をつけ、勝った方が唯一の軍司令官となるよう、申し入れた。アルヤートが同意したので、アブラハは一騎打ちに出ていった。彼は、小柄で太ったキリスト教徒であった。一方、槍を手にして決闘を受けたアルヤートは、背の高い、顔立ちの立派な大男であった。アブラハは、後方からの攻撃を防ぐため、アタウダという名の若者を後ろに伴っていた。アルヤートは、振り上げた槍をアブラハの頭上から打ち下ろし、彼の額、まゆ、目、鼻、口を裂いた。彼が、アルアシュラム(裂けた顔)、と呼ばれるのは、このためである。すると、アタウダがアブラハの後ろから飛び出て、アルヤートに襲いかかり、彼を殺した。それから、アルヤートの軍は、アブラハの軍に合流し、イエメンの全アビシニア人は、アブラハを首領とした。アブラハは、アルヤートの死に対する賠償を支払った。

 この事件の知らせを聞いたアンナジャーシィは、憤りをいっぱいにしながら、「彼は、余の命令が全くないというのに、余の総督を襲って殺してしまったのか」、と言い、アブラハの土地を踏みつけ、彼の前髪を刈り取るまで、彼を放置してはおかない、と誓った。これを聞いたアブラハは、頭髪を剃り、イエメンの土で満たした皮袋に手紙を添えてアンナジャーシィに送った。手紙には、「おお、陛下、アルヤートは、主人の奴隷にすぎず、私も主人の奴隷です。我々は、主人の命令について争いました。誰でも主人に従わねばなりません。ですが私は、アビシニア人の問題を治めることにおいて、より強力で、断固とし、巧妙でした。ところで私は、我が主人の誓いを聞きました。そこで、我が主人が足の下に置いて、誓われた内容を果されるように、頭髪の全部を剃り、それを私の支配する地の土を詰めた皮袋と一緒にお送りいたします」、と書かれていた。手紙を読んだアンナジャーシィは、アブラハと和解し、さらに命令があるまでイエメンにとどまるよう命令し、命に従って、アブラハは、イエメンにとどまった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(41)

ダウス・ズゥー・サアラバーンと、アビシニアによるイエメン支配の始まり、そしてイエメンの総督となったアルヤートの物語(2)


 イブヌ・ズィイバッ・サカフィーも、この出来事について次のように詠んだ。

 「汝の命にかけて、死と老いに捕らえられたならば、決して逃れられない。

 汝の命にかけて、人には逃げるところがない、避難所はどこにもない、

 ヒムヤルの諸部族が災厄の一撃で一朝にして破滅させられたからには、

 百万の戦士が槍を雨の前の大空のように輝かせて襲って来たからには。

 彼らの雄叫びは突撃者の耳を塞ぎ、刺激的な臭い漂わせて戦士たちを潰走させた。

 砂の数のような魔女が近づき樹木の活力を枯渇させるごとくに」。

 アムル・イブン・マアディー・カリブッ・ズバイディーは、自分とカイス・イブン・マクシューハ・アルムラーディーとのいさかいの最中で、カイスが自分を脅す発言をしていたと聞き及んだとき、ヒムヤルの失われた栄光を回想しながら、次のように詠んだ。

 「お前は、あたかも絶頂期のズゥー・ルアインか、

あるいはズゥー・ヌワースのように、私を脅すのか。

 お前より以前の多くの人びとが繁栄し、

 人々の間に堅固な王国を築いた。

 アードのような古の時から

 猛々しさを乗り越え、暴虐者を征服して、

 それでも彼の民は破滅し、

 彼は人々の間で放浪者となった」。

 校訂者イブン・ヒシャームによれば、第二代正統カリフ、ウマル・イブヌル・ハッターブは、アルメニアを征服したイスラーム軍に、戦利品の分配で、純血種のアラブ馬を所有する戦士を、混血種を所有する戦士よりも優遇するように指令した。この時、カイスが、アムルの馬を混血と軽蔑したことからいさかいが起きたという。アラブにとり、自分が所属する部族の系譜が純血であること、純血種のアラブ馬を保有することほどの誉れはほかになかった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(40)

ダウス・ズゥー・サアラバーンと、アビシニアによるイエメン支配の始まり、そしてイエメンの総督となったアルヤートの物語(1)


 迫害から逃れたダウス・ズゥー・サアラバーンという名のサバ人は、馬に乗って砂漠に入っていった。彼は、ビザンチン〔東ローマ帝国〕の宮廷にたどり着くまで進み続け、皇帝に起こった出来事を語り、ズゥー・ヌワースと彼の軍隊を撃退するため、助けを求めた。皇帝は、「我が帝国が軍を派遣して援助するにはあまりに遠すぎる。しかし、領土がイエメンに近く、キリスト教徒でもあるアビシニアの王に余が手紙を書こう」、と答えた。かくて、ビザンチン皇帝は手紙を書き、ダウスを助けて、復讐するように命令した。

 ダウスが、手紙を携えてアンナジャーシィ〔アビシニア王の名称〕のところに行くと、アンナジャーシィはアルヤートという名の司令官と、七万の軍隊を、ダウスと共に派遣した。軍隊のなかに、アブラハ・アルアシュラムという男がいた。アルヤートと、ダウス・ズゥー・サアラバーンは、海を渡り、イエメンに上陸した。ズゥー・ヌワースは、ヒムヤル族と彼の配下にあるイエメン族を動員して、アビシニア軍を迎え撃ったが、撃退された。自分の信条が失墜したことを悟ったズゥー・ヌワースは、馬首を海に向け、波を越え、浅瀬を渡り、海中深く沈むまで馬に鞭を入れた。これが、彼の姿が見られた最後であった。アルヤートは、イエメンに入り、この地を支配した。

 この出来事は西暦五二五年のころとされている。

 ダウスが、いかにしてアビシニア軍をイエメンに連れてきたかを回想して、あるイエメン人は、次のように語った。

 「ダウスのような者になるな、彼が鞍袋に入れて来たものは宝物ではない」

そしてこの言葉は今にいたるまで、イエメンのことわざになっている。

 イエメンが異邦人の支配を受けていることを意味する。

 ズゥー・ジャダン・ヒムヤリは、次のように詠んだ。

 「もう悲しむな、涙しても走り去ったものは戻らない。

 死んだ者のために、汝自身を悩ませるではない。

 バイヌーンの後には、石も廃墟も残っていない。

 そしてシルヒーンの後には、人はまたそのような家を建てるのだろうか」。

 バイヌーン、シルヒーン、グムダーンは、アルヤートが破壊したイエメンの城で、そのような城は、ほかに存在したことはなかった。

また、ズゥー・ジャダンは詠んだ。

 「平穏、それがどうした。お前は私の心を変えることはできない、

 お前の説教は、わたしの焦燥を募らせる。

 昔は、歌い手の音楽に合わせて楽しんだものだ、

 混じり気のない極上の酒を存分にやりながら。

 酒を自由に酌み交わすことは、何も恥じることではない、

 愉快な仲間たちが、私の行いを責めない限り。

 誰も死から逃れることはできない、

 たとえ、香りをつけた良薬を飲んでも。

 ハゲタカが巣の周りを舞っているような、

高いところで隠遁している修道士でさえも。

 お前はグムダーンにそびえ立っていた塔のことを聞いた、

 それは山の頂のようにそびえ立っていた。

石を支えにして、巧みに建造され、

 汚れのない、湿った、つやのある粘土で固められて、

 中のオイル・ランプは

 あたかも雷光のごとくにきらめいていた。

 その壁の側にはナツメヤシの樹々が美しく、

 果実の房をたわわに実らせて輝いていた。

 かつては真新しかったこの城も今は廃墟となった、

 炎がその美しさを飲み込んでしまった。

 ズゥー・ヌワースは卑しめられ、この偉大な城を棄てた、

 そして彼の民にやがて訪れる運命について警告した」。

 ヒムヤルの王が紀元一世紀ころイエメンのサヌアに建築した巨大な城郭。二十階建て、高さ百㍍の高層建造物だった。アラブの詩人は、そびえる塔に懸かる雲を「グムダーンのターバン」とうたった。

2012年6月9日土曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(39)

アブドッラー・イブヌッ・サーミルと坑の住人(3)


 その後、ズゥー・ヌワースが、ナジュラーンに軍を引き連れてやってきた。彼は、ユダヤ教を受容するように人々に呼びかけ、ユダヤ教かそれとも死か、と迫ったので、信仰あるナジュラーンの民は殉教を選んだ。そこで彼は、坑を掘って、坑の中で信仰者たちを燃やしたり、剣で殺したり、手足を切断したりして、その数二万に近い人々を虐殺した。ズゥー・ヌワースと、彼の軍隊について、主は使徒に啓示を下されている。

 「坑の人びとは滅ぼされ、火には薪が接ぎ足される。

 見よ。かれらはその傍に座り、

信者に対してかれらが行ったこと〔のすべて〕について、立証される。

 かれらがかれら〔信者〕を迫害したのは、

 威力ある御方、讃美されるべき御方アッラーを、

 かれら〔信者〕が信仰したためにほかならない」(八五章四―八節)。

 アラブの伝承によれば、この事件は西暦五二三年ころのこと、とされている。

 ズゥー・ヌワースによって殺された人たちのなかに、彼らの指導者、イマームのアブドッラー・イブヌッ・サーミルがいた、と伝えられている。

 アブドッラー・イブン・アブー・バクル・イブン・ムハンマド・イブン・アムル・イブン・ハズムが、私に語ったところによれば、ウマル・イブヌル・ハッターブの時代に、ナジュラーンのある人が、土地を利用するためナジュラーンの廃墟の一つを掘ったところ、アブドッラー・イブヌッ・サーミルの墓を見つけ、彼の亡き骸は頭の傷を保護するため手をしっかりと頭に当てて座った姿勢をとっていた、ということである。亡き骸を見つけた人が、亡き骸の手を頭から離すと、突然血が流れ出し、その手を離すと、自然に元の位置に戻り、血が止まったという。亡き骸の指には、「アッラーは、我が主なり」、と刻印された指輪がはめられており、その知らせがウマルに届くと、彼は、「亡き骸をそのままにして、墓に覆いを被せなさい」、と言い、その命令はしかと実行されたということである。

 八世紀前半に活動した第二世代の伝承伝達者。アブドッラーの父、アブー・バクル・イブン・ムハンマドは、ウマイヤ朝カリフの命令で神の使徒の伝承を収集した。父からこれらの伝承を継承していたアブドッラーは、イブン・イスハークの重要な権威筋の一人だった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(38)

アブドッラー・イブヌッ・サーミルと坑の住人(2)


 それ以来、アブドッラー・イブヌッ・サーミルは、ナジュラーンで病人に出会う度に、「おお、神のしもべよ、あなたが、神の唯一性を受け入れるならば、私は、神があなたの苦痛を癒してくださるように祈りましょう。唯一の神への信仰を受け入れますか」、と言うのだった。病人が彼に同意し、神の唯一性を受容してムスリムになると、彼は病人のために神に祈って病を治していった。そしてついにナジュラーンでは、唯一の神への信仰に帰依した病人すべてが、病から完全に治癒していった。この知らせが王のもとに届くと、王は使いをやってアブドッラーを呼びつけ、「お前が余の町の人々を堕落させたので、彼らは余に反抗し、余と我らが父祖の宗教に反対している。いまに目に物見せてやる」、と言った。彼は、「あなたには、そのような力はない」、と答えた。王は、彼を高い山の上に連れて行かせ、まっ逆さまに突き落としたが、彼は何事もなく地上に降り立った。次に王は、それまで誰も戻ってくることのなかったナジュラーンの深い水の底に彼を突き落としたが、彼は無事に水底から戻って来た。

 アブドッラーは、王を完全に打ち負かして、「神の唯一性を受容して唯一の神への信仰に帰依するまでは、私を殺すことはできません。しかし、信仰を受け入れれば、私を殺す力を与えられるでしょう」、と王に言った。そこで王は、神の唯一性を受容して、唯一の神への信仰を宣言し、持っていた棒で彼を軽く打ったところ、彼は即座に死に、王自身もまたその場で死んでしまった。かくして、ナジュラーンの人びとすべてが、イーサ・イブン・マルヤムがもたらした教えに従って、アブドッラー・イブヌッ・サーミルと同じ信仰を受け入れた。その後彼らは、同じ信仰を持つ他の同胞たちと同様に、災厄に見舞われることとなる。これが、ナジュラーンのキリスト教の起源である。だが、このことに関しては神が一番よくご存知である。

 これが、ムハンマド・イブン・カアバル・クラズィーと、ナジュラーンのある人が、アブドッラー・イブヌッ・サーミルについて語った物語であるが、神のみが、何が起きたかを一番ご存知である。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(37)

アブドッラー・イブヌッ・サーミルと坑の住人(1)


 ヤズィード・イブン・ズィヤードは、ムハンマド・イブン・カアバル・クラズィーを典拠として私に語った。ナジュラーンのある人もまた、私に同様の話を語った。

 ユダヤ部族クライザ出身の伝承家、ヒジュラ暦一一八(西暦七三六)年頃没。

 当時、ナジュラーンは、近郊から人びとが集合する最大の街で、そのすぐ近くの村に、若者に魔術を教えていた魔法使いが住んでいた。ファイミユーンがナジュラーンにやって来たとき――この典拠では、ワハブ・イブン・ムナッビヒが呼んだファイミユーンという名では語られず、単に、ある人がやって来た、と語られている――彼は、ナジュラーンの中心地と魔法使いが住む場所の間に天幕を張った。ナジュラーンの人びとは、魔術を学ばせるため、彼らの若者をこの魔法使いの所に通わせていた。アッサーミルも息子のアブドッラーを一緒に行かせていた。天幕の中にいる人の側を通りかかったとき、アブドッラーは、その人の礼拝と献身に限りのない衝撃を受けて、その人を師として学ぶことを決意した。師は、彼が自分の下で神の唯一性を信条として主を崇拝するムスリムとなるまで、その教えを学ぶことを許した。アブドッラーは、イスラームの教えについて師から夢中で学んだ。そしてかなり学んだ後に、彼は師に、「神の最も偉大な名前は何ですか」と尋ねた。師は、その名を知っていたが、「親愛なる若者よ、あなたはそれにまだ耐えることができないであろう。私は、あなたが十分に強力ではないことを恐れる」、と言って、教えなかった。アッサーミルはといえば、息子のアブドッラーが、ほかの若者と一緒に魔法使いの所に行っていないなどとは、全く知らなかった。師が神の名を教えず、彼の弱さを心配していることを知ったアブドッラーは、たくさんの木片を集め、師が神の名前を言う度にそれを木片に書き記した。神のすべての名前を書き記すと彼は火をおこし、木片を一つ、一つ、炎の中に投げ入れ続け、そして神の最も偉大なる名前が記されている木片を投じると、それはたちまちのうちに炎の中から跳ね上がり、決して燃えることはなかった。そこで彼は、この木片を手にして師の所に行き、「先生が教えてくださらなかった、神の最も偉大なる名前を知りました」と言った。師は彼に質問をし、彼がいかにしてこの名を知り得たかを知ったとき、「おお、私の若い友よ、おまえはついにそれを知ったが、それをおまえ自身だけにとどめておきなさい。しかし、私はおまえがそうするだろうとは思わないが」と言った。

 イスラームとは、唯一の神に帰依することであり、唯一神への帰依者をムスリムと言う。ムスリムという言葉を最初に使用したのは、イブラヒームであった。唯一の神は、唯一の啓示を下されたため、モーセやイエス、ムハンマドやその他の神の使徒たちは皆、同一の啓示を授けられた。この啓示こそがイスラームである。ユダヤ教徒やキリスト教徒であっても、唯一の啓示を信仰する者は、啓典の民である。しかし、ユダヤ教やキリスト教という呼称は、神の啓示に基づくものではなく、人間の恣意によるものである、というのがムスリムの考え方。

2012年6月6日水曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(36)

ナジュラーンのキリスト教の起源(2)

 
 村人の家に着くとファイミユーンは、何をしてほしいかを尋ね、村人は細かい指示を与えた後、突然、子どもにかけていた覆いを取って、「おお、ファイミユーンよ、神の被造物の一つが、見た通りの状態にある。彼のために祈ってくれないか」、と言った。
 ファイミユーンが祈ると、その子は立ち上がり、すっかり目は治癒していた。人びとに知られるようになったことを悟った彼は、村を離れ、サーリフも彼に従った。二人がシリアを出て大きな樹の側を通りかかると、その木陰から一人の男が声をかけた。
 「私はあなたが来ることを予期し、あなたの声を聞き、それがあなたであることを知った、たった今まで、彼はいつやって来るのか、と言い続けてきた。私は間もなく死ぬので、私の墓で祈るまで、どうか行かないでください」。
 ほどなくその男は死に、男が埋葬されるまで、ファイミユーンは祈った。それから彼は出発し、サーリフも彼に従った。彼らがアラブの土地に入ると、アラブは彼らを襲い、隊商は彼らをナジュラーンに連れ去り、そこで彼らを奴隷として売った。
 そのころナジュラーンの人びとは、ナツメヤシの巨木を崇拝するアラブの宗教に従っていた。彼らは年に一度、手に入れることができるあらゆるきれいな衣装や女性の装身具をその樹に飾る祭りを執り行い、一日中、その周りで大騒ぎした。
 ファイミユーンは、ある貴人に、サーリフは、別の貴人に売られた。ファイミユーンが、彼の所有者から割当てられた小屋で夜に熱心にお祈りすると、小屋には光が満ちて、ランプがないのに煌々と輝いた。この光景に驚嘆した所有者は、彼の宗教について尋ねた。
 彼は自らの宗教について語り、「ナツメヤシの樹は、助けることも傷つけることもできないので、あなたがたは誤っています。主は比類のない唯一の神です。もし私がその神の御名においてその樹を呪えば、主は樹をお倒しになるでしょう」と言った。
 「それならば、やってみるがいい」、と彼の持ち主は言い、「もしお前がそれを証明したならば、我らはお前の信じる宗教を受け入れ、我らの宗教を放棄しよう」、と誓った。ファイミユーンは身を清め、二ラカーの礼拝を行い、樹を倒す助けを神に祈願した。すると神は、嵐を送って巨木を根元から引きちぎり、大地に横たえてくださった。
 こうして、ナジュラーンの人びとはキリスト教に帰依し、彼は人びとをイーサ・イブン・マルヤム〔マリアの息子イエス〕の教えに導いた。それから後、至る所でキリスト教の兄弟たちは災難に見舞われた。これが、アラブの地、ナジュラーンでのキリスト教の起源である。これは、ナジュラーンの人びとを典拠とするワハブ・イブン・ムナッビヒの報告である。

 一回の跪拝に伴う一連の礼拝動作を一つとする礼拝の単位。