2012年7月11日水曜日

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(76)

クサイイ・イブン・キラーブとフッバア・ビント・フライルの婚姻


 クサイイ・イブン・キラーブは、フライル・イブン・ハバシーヤに、娘のフッバアとの結婚を申し入れた。フライルは同意して彼に娘を与え、二人の間にアブドッ・ダール、アブド・マナーフ、アブドゥル・ウッザ、アブドの四人の息子が産まれた。クサイイの息子たちが外地に散らばり、富を蓄え、名声を得たころ、フライルは死んだ。そこでクサイイは、自分こそホザーア族やバクル族よりもカアバとマッカを統治するにふさわしい資質を持っており、クライシュ一族は、イスマイール・イブン・イブラヒームの最も高貴で純血な子孫である、と考えた。クサイイは、クライシュ一族とキナーナ一族に、ホザーア族とバクル族をマッカから追放しようと呼びかけ、彼らはそれに合意した。

 ウダラ・イブン・サアド・イブン・ザイドの部族のラビーア・イブン・ハラームは、マッカにやって来て、キラーブ・イブン・ムッラが死んだとき、ファーティマ・ビント・サアド・イブン・サイアルと結婚した。(ズフラはそのとき成人して離れており、クサイイは乳離れしたばかりであった)。ラビーアはファーティマを彼の土地に連れていき、クサイイもついて行った。その後、彼女はリザーハを産んだ。クサイイは成年に達するとマッカに移り住んだ。

 キラーブ・イブン・ムッラの妻、クサイイの母。

 そのような事情があったため、部族の者たちがクサイイに戦いに参加するよう呼びかけたとき、彼は弟のリザーハに手紙を書き、マッカにやって来て援護するよう頼んだ。そこでリザーハは、ラビーアの息子でファーティマを母としない三人の異母兄弟、ホン、マハムード、ジュルフマと共に出発し、巡礼でマッカに向かう多数のクダーア族の者たちがクサイイの支援に合意して、一緒にマッカに向かった。

 フライル・イブン・ハバシーヤは、自分の孫たちの繁栄を見て、「お前はホザーアよりも正当なカアバの管理権とマッカを統治する権利を持っている」とクサイイに遺言を残したと、ホザーア族は主張した。この史実によって、クサイイは、自らのカアバの管理権とマッカの統治権の正当性を訴えた。しかしこれは、ホザーア族以外のいかなる情報源からも聞かされていない話であって、真実は、神のみがご存知である。

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(75)

ホザーア族によるカアバの管理の専制


 次にカアバを管理したのは、バクル・イブン・アブド・マナートの部族ではなく、ホザーアのグブシャーン族の、アムル・イブヌル・ハーリスル・グブシャーニーだった。そのころクライシュ一族は、あちこちの定住地と天幕に暮らし、キナーナ一族の人びとの間に散らばっていた。そこでホザーア族がカアバを管理し、管理権は、息子から息子へと継承され、管理権の継承は最後のフライル・イブン・ハバシーヤ・イブン・サルール・イブン・カアブ・イブン・アムル・アルホザーイまで続いた。

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(74)

キナ―ナ、ホザーア両部族によるカアバ神殿の管理権の奪取と、ジュルフム族の追放


 その後、ジュルフム族は、マッカで高慢な態度をとるようになり、禁忌にされていたことを合法とした。よそ者がマッカに入ると虐待し、カアバに供えられた贈り物を独占したため、結果として彼らの立場は悪くなった。バクル・イブン・アブド・マナート・イブン・キナーナの部族とホザーア部族のグブシャーン族は、この状況に気づき、ジュルフム族と戦い、マッカから追放するために団結した。彼らは、ジュルフム族に戦いを挑んで勝利し、ジュルフム族をマッカから追放した。イスラーム以前のマッカは、域内で不正、邪悪な行いを許さず、誰かが域内でそのような行為を行えば、追放された。当時、マッカは、「アンナーッサ」〔粉砕する場〕と呼ばれた。それは、いかなる王といえども聖域の禁忌を破る者は、その場で粉砕されたことに由来する。また、マッカが「バッカ」〔へし折る場〕と呼ばれたのは、域内でなにか新奇なことをした圧制者は、首をへし折られたことに由来する、と言われている。

 アムル・イブヌル・ハーリス・イブン・ムダードル・ジュルフミは、カアバから二体の黄金のガゼル像と神殿の隅石を運び出してザムザムの泉の中に埋め、ジュルフムの民を連れてイエメンに帰っていった。彼らは、マッカの管理権を失ったことをひどく嘆き、アムルは、次のように詠んだ。

 「多くの女たちは、激しく号泣した、

 ある女は涙で目をはらして言った、

 それはあたかも〔マッカの〕アルハジューン山とアッサファーの丘の間に、友がおらず、

 マッカの長い夜を楽しませてくれる人が一人もいないようだ。

 肋骨の間で鳥が羽ばたいているかのごとく心臓を鼓動させながら、

 私は彼女に言った、

 確かに我らはマッカの民であった、

 そして、痛ましい悲運が我らに降りかかり、無に帰してしまった、

 我らはナービトの後、カアバの管理者であった、

 我らはカアバを回ったものだ、

 我らの繁栄は見るからに明白であった。

 我らはナービトの後、カアバを管理する栄誉を担った、

 我らに並ぶ富者はいなかった。

 我らは権力に君臨し、我らの統治がいかに偉大であったことか。

 そこのいかなる部族も誇ることができなかった。

 お前の娘が私の知る最も優れた男〔イスマイール〕と結婚しなかったことがあったか。

 彼の息子は我らのものであり、我らは婚姻によって兄弟だった

 もしこの世が我らに背いたならば、

 これほど悲惨な変化はほかにない。

 神は我らを力で追放された、

おお、男たちよ、

 それゆえ運命は必ず追いかけてくる。

 私は安らかに眠りにつくときに、眠らずに言う、

 玉座の主よ、スハイルとアーミルを滅亡させたもうなかれ

 わたしは嫌いな顔を見上げることを強いられた、

 ヒムヤルとユハービルの諸部族を。

 我らは繁栄した後、伝説となってしまった。

 それは過ぎ去っていく歳月の我らへの仕打ちである。

 街のために泣き、涙が流れる、

 そこには確かな聖域と神聖な場所があった。

 鳩が害されることがなく、

 雀の群れと一緒に安らかに過ごした、

カアバのために泣く。

 その地の野生動物は人懐こく、追い立てられることもない、

 だが、いったん聖域を離れれば、気ままにさすらう」。

 アムル・イブヌル・ハーリスは、マッカのバクル族とグブシャーン族、そしてその他のマッカの人びとを回顧して、また次のように詠んだ。

 「旅に出るのだ、おお、男たちよ、

 いつの日か、おまえたちにも歩けないときがやって来る。

 家畜を急がせよ、手綱を緩めて、

 死が迫る前に、なすべきことをなせ。

 我らもお前たちのような男だった、運命が我らを変えたのだ、

 お前たちも我らがかつてそうであったようになるであろう」。

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(73)

ジュルフム族とザムザムの泉の埋め立て


 ズィヤード・イブン・アブドッラル・バカーイーが、ムハンマド・イブン・イスハークル・ムッタリビから伝え聞いた話を次のように語った。「イブラヒームの息子、イスマイールの死後、神がお望みになった期間、イスマイールの息子のナービトはカアバを管理し、その後はムダード・イブン・アムル・アルジュルフミが管理した」。

イスマイールとナービトの子孫は、彼らの祖父ムダード・イブン・アムルと、ジュルフム族出身の彼らの母方のおじたちと共にいた。

 ムダード・イブン・アムルの娘ラアラが、イスマイールの妻、ナービトらの母親。

 当時、ジュルフム族とカトゥーラア族は、マッカに住むいとこ同士の部族であった。彼らはイエメンから一緒にやって来て、ムダードがジュルフム族を統治し、アッサマイダがカトゥーラア族を統治していた。彼らがイエメンを離れた当時は、イエメンでは、部族長がいない一族が旅立つことは認められなかった。マッカにたどり着いて、水と樹木に恵まれた街を眺めると、彼らは喜び、定住した。ムダード・イブン・アムルは、ジュルフムの民と共にマッカ北部のクアイキアーン高地に定住を決めて、その地にとどまった。アッサマイダはカトゥーラアの民と共にマッカ南部のアジヤード低地に定住を決めて、その地にとどまった。ムダードは、北部からマッカに入る人びとから十分の一の税を、アッサマイダは、南部からマッカに入る人びとから十分の一の税を徴収した。彼らは互いに交わらず、互いの領地にも入ろうとしなかった。

 その後、ジュルフム族とカトゥーラア族の間で紛争が発生し、両者は覇権を争った。そのころムダードは、イスマイールとナービトの子孫を味方につけ、アッサマイダに対抗してカアバを管理していた。両部族の間で戦いが始まった。ムダードは、歩兵隊を率いてクアイキアーンから出陣した。彼らは槍や革の盾、剣や矢筒をガチャガチャと鳴らせて武装し、アッサマイダの軍団めがけて、進軍した。この史実が、クアイキアーン〔ガチャガチャ〕の語源、と言われている。一方アッサマイダは、アジヤードから騎兵隊を率いて進撃し、彼の騎馬軍団が駿馬(ジヤード)で編制されていたことが、アジヤードの語源、と伝えられる。両軍はファーディフの地で激突し、激しい戦闘の後、アッサマイダは殺され、カトゥーラア族は、屈辱に甘んじた。この史実が、ファーディフ〔屈辱〕の語源と言われている。戦いの後、人びとは平和を熱望して、マッカ北部のアルマタービハ谷に行き、そこで和平を取り交わし、ムダードの権力に降伏した。ムダードが権力を保持し、主権者の地位にあった期間、彼は家畜を殺して人びとに食物として与えた。人びとはそれを料理して食べたので、それがマタービハ〔調理場〕の語源と言われている。一部の有識者は、トゥッバアの民がそこを根拠地とし、家畜を殺して施し物としたことがマタービハの語源である、と主張している。ムダードとアッサマイダの紛争は、マッカで最初に犯された、明白な不正行為であった、と言われている。

 その後、神は、イスマイールの子孫の数を増やし、ジュルフム族の彼らのおじたちは、カアバ神殿の管理者やマッカの統治者を務めた。イスマイールの子孫たちは、血族の絆を尊重し、聖域内で不正行為や闘争、殺人が発生しないよう努めたため、彼らが権力争いをすることはなかった。マッカがイスマイールの子孫たちにとって狭すぎるようになると、彼らは外の土地に散らばっていき、彼らがほかの土地の人びとと争わねばならないときには、神は、信仰深く敬虔な彼らに勝利を授けられた。

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(72)

ザムザムの泉の掘削


 アブドゥル・ムッタリブがカアバ神殿のアルヒジュルで眠っているとき、クライシュ一族が犠牲をささげていた偶像、イサーフとナーイラの間のくぼ地であるザムザムを掘るようにとの夢をみた。そこは、ジュルフムがマッカを去ったとき、埋めて行ったところである。それは、イブラヒームの息子、イスマイールが幼いころ、のどが渇いたとき、神が水を与えた泉であった。イスマイールの母は子のために水を探していたが、見つからなかったので、アッサファーの丘にまで出かけていき、イスマイールのために助けを哀願して神に祈った。次に母はアルマルワの丘に行き、同様に祈った。神は天使、ジブリール〔ガブリエル〕を遣わし、ジブリールが地上のある場所をかかとでうがったところ、その場所〔ザムザム〕から水が湧き出た。イスマイールの母は、野獣の叫びを聞き、わが子の身を案じて恐れおののいて駆け戻ると、息子が水を手であごの下にすくって飲んでいるのを目撃した。そして彼女は、息子のために小さなくぼみを掘ってやった。

 マッカにある二つの小さな丘の名。伝承によると、ハージャルは七回、二つの丘の間を走り、最後にアルマルワで神に祈っているとき、天使が現われてザムザムの泉を掘った。二つの丘を走って七回巡ることはマッカ巡礼の一部になっている。

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(71)

アウフ・イブン・ルアイイの移住(4)


 カアブ・イブン・ルアイイは、三人の息子、ムッラ、アディーユ、ホサイスをもうけた。彼らの母は、ワハシーヤ・ビント・シャイバーン・イブン・ムハーリブ・イブン・フィフル・イブン・マーリク・イブヌン・ナドゥルといった。

 ムッラ・イブン・カアブは、三人の息子、キラーブ、タイム、ヤカザをもうけた。キラーブの母は、ヒンド・ビント・スライル・イブン・サアラバ・イブヌル・ハーリス・イブン・フィフル・イブン・マーリク・イブヌン・ナドゥル・イブン・キナーナ・イブン・ホザーイマ、ヤカザの母は、イエメンのバーリク・アスドの女、アルバーリキーヤといった。ある人は、彼女はタイムの母だと言い、ほかのある人は、タイムの母は、キラーブの母、ヒンド・ビント・スライルであると言う。

 キラーブ・イブン・ムッラは、二人の息子、クサイイとズフラをもうけ、母は、アッディール・イブン・バクル・イブン・アブド・マナート・イブン・キナーナの部族が同盟を結んでいる、イエメンのジャダラ・ジョウスマ・アルアズド族出身のファーティマ・ビント・サアド・イブン・サイアルといった。

 サアド・イブン・サイアルについて詩人は、次のように詠んでいる。

 「我らがこれまで知っている男の中で

 サアド・イブン・サイアルのような男を見たことがない。

 彼は、両手に武器を携え、勇猛さあふれる雄姿で騎乗し、

 歩兵と戦うときは、下馬して戦い、

 進撃して敵の騎兵を打倒した、

 あたかも鷹がキジを急襲して爪で運ぶように」。

 クサイイ・イブン・キラーブは、四人の息子、アブド・マナーフ、アブドッ・ダール、アブドゥル・ウッザ、アブド・クサイイと、二人の娘、タフムルとバッラをもうけた。彼らの母は、フッバー・ビント・フライル・イブン・ハバシーヤ・イブン・サルール・イブン・カアブ・イブン・アムル・ホザーイである。

 アブド・マナーフは、別名をアルムギーラ・イブン・クサイイと言い、四人の息子をもうけた。息子のうち、ハーシム、アブド・シャムス、アルムッタリブの母は、アーティカ・ビント・ムッラ・イブン・ヒラール・イブン・ファーリジ・イブン・ザクワーン・イブン・サアラバ・イブン・ブフサ・イブン・スライム・イブン・マンスール・イブン・イクリマで、ナウファルの母は、ワーキダ・ビント・アムル・アルマーズィニーヤ、すなわちマーズィン・イブン・マンスール・イブン・イクリマの部族の出身である。

2012年7月2日月曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(70)

アウフ・イブン・ルアイイの移住(3)


 信頼できるある人は私に、ウマル・イブヌル・ハッターブが、ムッラ族の人びとに、「もしお前たちが親族〔クライシュ〕のもとに戻りたいのであれば、そうしなさい」、と言った、と語った。

 イスラームの征服時代、血統の正統性、優越性が、イスラーム軍将兵の給料、年金の額に反映されるようになったことを意味している。第二代正統カリフ・ウマル(在位六三四ー四四年)が系譜に従って名簿(軍隊の帳簿、ディワーン)を作成させ、これに基づいて俸給を計算、支給した。これが後に、国家収支の細目を記帳する帳簿となり、さらに国家の省庁、行政機関を意味するようになった。

 アウフの子孫たちは、ガタファーンの間では、貴人であった。彼らは、首長、族長だった。彼らのうち、ハリム・イブン・スィナーン・イブン・アブー・ハーリサ・イブン・ムッラ・イブン・ヌシュバ、ハーリジャ・イブン・スィナーン・イブン・アブー・ハーリサ、アルハーリス・イブン・アウフ、アルホサイン・イブヌル・ホマーム、ハーシム・イブン・ハルマラについて、ある人は次のように詠んだ。

 「ハーシム・イブン・ハルマラは、父を復活させた

 アルハバートの戦いの日と、アルヤアマラの戦いの日に、

 お前は彼のそばで王たちが殺されるのを見たであろう、

 彼が罪のある者も、罪のない者も殺して」。

 父を殺した者を殺して血の復讐をとげたことを復活に例えている。

 二つとも伝承で語り継がれている有名な部族間戦争。

 血の復讐を恐れない、という意味。

 彼らはガタファーン、カイス族の間では非常に誉れ高い人びとで、互いに血族の関係を維持していた。バスルの慣習が確立したのは、彼らの間であった。

 伝えられるところによればバスルとは、アラブが神聖月とする、一年のうちの八ヶ月に与えられた名前である。これらの月の間、アラブは暴力を恐れることなく、どこにでも行くことができた。

 ズハイル・イブン・アブー・スルマーは、ムッラ族について次のように詠んだ。

 「考えてみよ、もし彼らがアルマルラートで生活していなければ、

 彼らはナーホールにいるであろう、

 そこは私が彼らとの交友を楽しんだ地。

 もし彼らがどちらにもいないとすれば、

 バスルの間に自由に遊牧しているのであろう」。

それは、神聖な期間に彼らが旅していることを意味した。

 カイス・イブン・サアラバの部族のアルアーシャーは詠んだ。

 「お前の婦人たちの客が我らにとって禁制であるというのか、

 我らの婦人と夫たちがお前たちに許されているというのに」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(69)

アウフ・イブン・ルハイイの移住(2)


 ムッラ・イブン・アウフの部族の一人、アルハーリス・イブン・ザーリム・イブン・ジズィーマ・イブン・ヤルブウが、アンヌーマーン・イブヌル・ムンズィルから逃れて、クライシュと結託したとき、次のように詠んだ。

 「私の部族はサアラバ・イブン・サアドではない、

 長髪のファザーラ族でもない。

 もしお前が聞かねばならぬのなら、私の部族はルアイイである。

 マッカで彼らはムダルに戦いを指揮した。

 我らに最も近い親族と家族を離れて、

バギード族に従うとは、愚かであった。

 水を求める者にとってそれは愚かなことだった、

 飲み干しておいて井戸を捨て、蜃気楼を追いかけるとは。

 自ら進んで彼らと行動を共にすべきとは、いまいましい、

 牧草を求めてあちこちさまよい、見つからないとは。

 クライシュのラワーハは、私を彼のラクダに乗せた、

 そして見返りを求めなかった」。

 サハム・イブン・ムッラの部族の、アルホサイン・イブヌル・ホマームル・ムッリーは、アルハーリス・イブン・ザーリムに反論し、自分はガタファーンに属すると主張して、

 「見よ、お前は我らの一族ではない、我らはお前たちとは何の関係もない。

 我らはルアイイ・イブン・ガーリブとの関係を拒絶する。

 我らは誇り高きヒジャーズの高原に居住するが、

 お前たちは二つの山の間の緑の平地に住む」、

と、二つの山の間〔すなわちマッカ〕に住むのがクライシュ一族であることを意味して、詩を詠んだ。後になってアルホサインは、自分の詩を後悔して、アルハーリス・イブン・ザーリムの言葉が真実であると認めた。彼は、自分がクライシュに属すると主張し、自分の過ちを自ら非難して、

 「私はかつて言ったことを撤回する、

 それはうそつきの語る言葉であった。

 私は二枚舌を使っていたのであろう、

 一方は虚言で、もう一方は虚栄という。

 我らの父祖はキナーナ族で、彼の墓はマッカにある、

 山の間の緑の平地アルバトハにある。

 我らは聖域の四分の一を遺産として所有し、

 平地の四分の一をイブン・ハーティブ家が所有する」、

と、ルアイイの息子が、カアブ、アーミル、サアマ、アウフの四人であることを意味して、詩を詠んだ。

 カアバ神殿はマッカのワーディー(涸河)の最も低い場所に建てられており、神殿周辺の平地をアルバトハという。ここに定住したクライシュは、最も有力な部族で、クライシュッ・ビターハ(平地のクライシュ)と呼ばれ、神殿から離れた谷間や高地に定住した支族、同盟者は、クライシュッ・ザワーヒル(周辺のクライシュ)と呼ばれた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(68)

アウフ・イブン・ルアイイの移住(1)


 アウフ・イブン・ルアイイが、クライシュの隊商と共に、はるかかなたのガタファーン・イブン・サアド・イブン・カイス・イブン・アイラーンの地に行ったとき、彼は部族から取り残され、クライシュの隊商は彼をおいて去ってしまった、と言われている。サアラバ・イブン・サアド(ズビヤーン族の系譜によれば、サアラバ・イブン・サアド・イブン・ズビヤーン・イブン・バギード・イブン・ライス・イブン・ガタファーンと、アウフ・イブン・サアド・イブン・ズビヤーン・イブン・バギード・イブン・ライス・イブン・ガタファーンは兄弟となっている)は、アウフ・イブン・ルアイイに会い、彼と盟約して、彼に妻をめとらせ、彼を部族の義兄弟とした。ズビヤーン族の間では、アウフとの関係はよく知られるようになった。取り残されて、クライシュに見捨てられたアウフに、サアラバは次のように詩を詠んだ、と言われている。

 「あなたのラクダを私のそばにつなげ、おお、イブン・ルアイイよ。

 あなたの部族は、あなたを見捨て、あなたには家がない」。

 ガタファーンはヒジャーズ地方で強大な勢力を誇った部族連合。

 ムハンマド・イブン・ジャアファル・イブヌッ・ズバイルか、あるいはムハンマド・イブン・アブドッ・ラハマーン・イブン・アブドッラー・イブン・ホサインだったかも知れないが、私に語ったところによれば、ウマル・イブヌル・ハッターブは、「もし私がアラブのいずれかの部族に所属すると主張するのならば、あるいはいずれかを我らに結びつけたいとするのならば、私はムッラ・イブン・アウフの部族に属すると主張したいものだ。我々は、彼らのなかに我々のような人々がいることを知っている。また、我々はあの人がどこに行ったかも知っている」と、アウフ・イブン・ルアイイを意味しながら、語った。ガタファーンの系譜では、彼は、ムッラ・イブン・アウフ・イブン・サアド・イブン・ズビヤーン・イブン・バギード・イブン・ライス・イブン・ガタファーンのことである。この系譜に関してアラブは、「我々は、否定しないし論争もしない。それは我々の最も価値ある系譜である」、と言う。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(67)

サアマの物語


 サアマ・イブン・ルアイイは、ウマーンに行き、そこにとどまった。伝えられるところによると、兄弟けんかの末にサアマがアーミル・イブン・ルアイイの目を打ったので、アーミルの復讐を恐れて、彼はウマーンに向かった。また、ある話によれば、サアマの乗っていた雌ラクダが草をはもうとして頭を下げたとき、蛇がラクダの唇にかみつき、横倒しになった。さらに蛇はサアマをかんだので、彼は死んだとされている。死が迫ったとき、彼は次のように詠んだという。

 「目よ、サアマ・イブン・ルアイイのために泣け、

 蛇がサアマの足に巻きついた。

 サアマ・イブン・ルアイイのような

ラクダの犠牲者を見たことがあるか。

 カアブとアーミルに伝えよ、

 私の魂は彼らを懐かしむ、と。

 私の家はウマーンにあるが、

 私はガーリブの息子で、貧困のために出たのではない。

 酒杯を何杯もあふれさせた、おお、イブン・ルアイイよ、

 死を恐れて、さもなければあふれさせることはない。

 お前は死を免れようと望む、おお、イブン・ルアイイよ、

 しかし、誰にも死を逃れる力はない。

 多数のラクダは夜の旅で、お前がひざまずかせれば静かになる、

 大いなる努力の果てに」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(66)

系譜の続き


 ホザーアは次のように宣言している。「我らは、イエメン出身のアムル・イブン・アーミルの末裔である」。

 マリブ・ダムの決壊を予知した伝説のアズド族長。ある日、ネズミがダムに穴を掘っているのを見たアムルは、ダムの崩壊を予想、一族郎党を引き連れてイエメンから脱出した。これがきっかけで各氏族の移動の波が起こり、ガッサーンはシリアに、ラフムはヒーラに、アウスとハズラジはマディーナに移住した。ホザーアは、先にイエメンからマッカに移住していたジュルフムを追い出した。

 ムドゥリカ・イブン・イルヤースは、二人の息子ホザーイマとホザーイルをもうけ、彼らの母親はクダーア族の女だった。ホザーイマは、四人の息子、キナーナ、アサド、アサダ、アルホーンをもうけた。キナーナの母は、ウワーナ・ビント・サアド・イブン・カイス・イブン・アイラーン・イブン・ムダルである。

 キナーナには、四人の息子、アンナドゥル、マーリク、アブド・マナート、ミルカーンがいた。アンナドゥルの母は、バッラ・ビント・ムッル・イブン・ウッド・イブン・タービハ・イブン・イルヤース・イブン・ムダルである。ほかの息子たちの母は、別の女だった。

クライシュ一族の語源は、「タカッラシャ」〔結集〕である。クライシュ一族は、いったん分離したあと結集したことから、そう名付けられたと伝えられている。

 アンナドゥル・イブン・キナーナは、二人の息子、マーリクとヤハルドをもうけた。マーリクの母は、アーティカ・ビント・アドワーン・イブン・アムル・イブン・カイス・イブン・アイラーンといったが、ヤハルドの母であるかどうか、私は知らない。

 マーリク・イブヌン・ナドゥルは、息子フィフル・イブン・マーリクをもうけ、その母はジャンダラ・ビントル・ハーリス・イブン・ムダードル・ジュルフミといった。

 フィフルは、四人の息子、ガーリブ、ムハーリブ、アルハーリス、アサドをもうけ、彼らの母はライラ・ビント・サアド・イブン・ホザーイル・イブン・ムドゥリカである。

 ガーリブ・イブン・フィフルは、二人の息子、ルアイイとタイムをもうけ、その母はサルマ・ビント・アムル・アルホザーイで、タイムとその子孫は、アドラム族と呼ばれた。

 ルアイイ・イブン・ガーリブは四人の息子、カアブ、アーミル、サアマ、アウフをもうけ、最初の三人の母は、クダーア族のマーウィヤ・ビント・カアブ・イブヌル・カイン・イブン・ジャスルである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(65)

バヒーラ、サーイバ、ワスィーラ、そしてハーミーについて


 バヒーラとは、サーイバが産んだ雌ラクダである。サーイバとは、雄ラクダを途中で産むことなく、十頭の雌ラクダを続けて産む雌ラクダである。サーイバは放し飼いにされ、決して人を乗せず、毛を刈られることもなく、その乳を飲むのは客人にしか許されない。十頭の雌ラクダを産んでサーイバとなったラクダが産んだ雌ラクダは、耳に切り目を入れられ、母親のサーイバと同様に待遇されて、人を乗せることも、毛を刈られることもなく、客人のみがその乳を飲む。それがサーイバの産んだ雌ラクダ、バヒーラである。ワスィーラとは、雄ヒツジを途中で産むことなく、双子の雌ヒツジを五回続けて、つまり計十頭の雌ヒツジを産む雌ヒツジである。ワスィーラの語源は、「ワサラ」〔続く〕である。ワスィーラとなった雌ヒツジが産んだ雌ヒツジは、神に犠牲としてささげ、雄ヒツジは自分たちで保有する。ただし、ワスィーラの産んだヒツジが死んだときには、神と人びとで分かち合う。

 ハーミーは、雄ラクダが途中で産まれることなく、十頭の雌ラクダを続けて産ませる種ラクダである。彼の背は禁断とされ、だれも乗ることができず、毛を刈られることもない。ハーミーは、放し飼いにされ自由に種をつける。彼を種つけ以外に使用することはない。

 神はムハンマドをお遣わしになり、「アッラーが、バヒーラまたはサーイバ、ワスィーラまたはハーミーを定められたのではない。ただし、不信心者がアッラーに対して虚構したものである。かれらの多くは理解しない」(五章一〇三節)、と啓示された。また神は、ほかの啓示も与えられた。「また彼らは言う。これらの家畜の胎内のものはもっぱら男子のためのものであり、婦女には禁じられている。だが死産した場合、みなとともにそれにあずかる。神は彼らの述べたことに報いたもうであろう。神は聡明にしてよく知りたもうお方である」(六章一三九節)。「言ってやれ。おまえたちはどう思うのか。神が下された糧を、おまえたちは、あるいは禁忌とし、あるいは合法とした。言うがよい、神が許したもうたのか。それとも、おまえたちが神をだしにして捏造しているのか」(一〇章五九節)。「うちヒツジ二頭とヤギ二頭。言ってやれ、雄同士二頭を禁じたもうたのか、あるいは雌同士二頭をか。それとも二頭の雌の胎内にあるものをか。もしおまえたちが真実を語っているのなら、確信をもって私に告げよ。ラクダ二頭と牛二頭。言ってやれ、雄同士二頭を禁じたもうたのか、あるいは雌同士二頭をか。それとも二頭の雌の胎内にあるものをか。おまえたちは神が命じたもうたときにいあわせたのか。人々を迷わそうとして、なにも知りもしないのに神にたいして嘘を捏造する者より悪い者がどこにいようか。神が不義の民を導きたもうことはない」(六章一四三ー一四四節)。 

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(64)

アムル・イブン・ルハイイの物語と、アラブにおける偶像崇拝(5)


 アッラートは、ターイフのサキーフ族の神殿で、サキーフのムアッティブ族が守衛と管理人を務めていた。

 アルアウス、アルハズラジ、そのほかのヤスリブの人びとはマナートの神殿を崇拝していた。マナートの神殿は、アルムシャッラル山からクダイド側の〔紅〕海岸のほとりにあった。

 ダウス、カスアム、バジーラの部族や、そのほかの〔マッカからサヌアに向かって七日行程の〕タバーラの地のアラブは、ズル・カラサの神殿を持っていた。

 〔北東アラビアの〕タイイの民と、タイイにあるサルマとアジャの二つの山のそばにいた部族の神殿はファルスといった。

 ヒムヤルとイエメンの民の神殿は、サヌアにあり、リアームと呼ばれた。

 ラビーア・イブン・カアブ・イブン・サアド・イブン・ザイド・マナート・イブン・タミームの部族の神殿は、ルダアと呼ばれた。アルムスタウギル・イブン・ラビーア・イブン・カアブ・イブン・サアドは、イスラームの時代にこの神殿を破壊して、詩を詠んだ。

 「私はルダアを完全に破壊してしまった。

 そしてそれはうつろな黒い廃墟と化した」。

 ワーイルとイヤードの息子たち、バクルとタグリブは、〔北東アラビアの〕スィンダードにあるズル・カアバート神殿を保有していた。この神殿について、カイス・イブン・サアラバ族のアルアーシャーは、次のように詠んだ。

 「アルハワルナク宮殿と、アッサディール、バーリクの間に、

 そして、スィンダードのズル・カアバートの間に」。

 ラフム朝のアンヌーマーンがペルシャ皇帝のためにヒーラに建設したと伝えられる宮殿。皇帝の王子たちは皆、よう逝してしまい、継承者がいないのが悩みの種だった。清浄な砂漠の環境下で育った男子は、心身ともに健全に成長すると聞いた皇帝は、生まれてくる王子を養育する宮殿の建造を命じた。アンヌーマーンが建造した宮殿があまりに豪壮であったため、アラブは世界の不思議の一つと考えた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(63)

アムル・イブン・ルハイイの物語と、アラブにおける偶像崇拝(4)


 当時は、どの家庭も、家の中に偶像を置いて、それを崇拝していた。男が旅に出るとき、旅立つ前に男は体を偶像にこすりつけた。これは、旅立つ直前に行わねばならない習慣であった。そして、旅から戻ったときは、家族に挨拶するよりも前に、再び体を偶像にこすりつけねばならなかった。神が、唯一性の啓示と共に、使徒ムハンマドをお遣わしになったとき、クライシュの人びとは、「ムハンマドは、神々を一つにまとめるというのか。何と奇妙な所業であることよ」、と言っていた。

 そのころアラブは、カアバのほかに、タワーギート〔偶像〕の神殿も受け入れ、カアバと同じように敬意を払っていた。彼らはタワーギートに守衛と管理人を設け、カアバを回り、犠牲をささげるのと同じようにタワーギートを回り、犠牲をささげた。それでも彼らは、カアバが、慈悲深い神の友イブラヒームの建てた礼拝地であったことから、カアバの優位性は認めていた。

 クライシュやキナーナの一族は、ナハラにアルウッザ神殿を持ち、ハーシム家の同盟者であったスライム一族のシャイバーン族が、守衛と管理人を務めていた。

 アラブの詩人は、次のように詠んでいる。

 「アスマアは、婚資として小さな赤い雌牛の頭を受け取った、

 ガンム族の男が犠牲にささげた雌牛の。

 彼は雌牛を引いてくるときその目の中に汚れを見つけた、

 彼はアルウッザのガブガブに雌牛を引いていき、分配した」。

 彼らは、犠牲をささげたとき、それを儀式に参加していた人々に分配することを慣わしとしていた。ガブガブとは、犠牲の血が流される屠殺場だった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(62)

アムル・イブン・ルハイイの物語と、アラブにおける偶像崇拝(3)


 ミルカーン・イブン・キナーナ・イブン・ホザーイマ・イブン・ムドゥリカ・イブン・イルヤース・イブン・ムダルの部族は、〔ジッダの北の〕彼らの国の砂漠の平地にある小高い岩を偶像とし、サアドと呼んでいた。彼らは、部族の一人が、肉食用ラクダの群れを岩のそばに連れて行き、偶像の恩恵にあずからせようとした物語を伝えている。人を運んだこともなく、放牧されていたラクダたちは、サアドの岩を見てそこで流された犠牲の血のにおいをかぐと、後ずさりして散り散りに逃げて行った。これに怒ったミルカーン族の男は、石を拾って偶像に投げつけ、「神に呪われよ。お前は私のラクダを恐れさせた」、と叫んだ。散り散りに逃げたラクダを探し、もとの群れに戻すと、今度は、次のように詩を詠んだ。

 「我らは、財産を増やすためにサアドを崇拝しにきた、

 それなのに、サアドはラクダを追い払った。

 我らは、サアドとは何の関係もない。

 サアドは、高いだけでなんのとりえもない。

 サアドは正しいことも、悪いこともできない」。

 ダウス族は、アムル・イブン・フママッ・ダウスィが所有する偶像を崇拝していた。

 クライシュ一族は、カアバ神殿の中の井戸のそばに、ホバルと呼ばれる偶像を持っていた。また彼らは、ザムザムのそばにイサーフとナーイラと呼ばれる偶像を置き、犠牲をささげる際にはそこで屠殺していた。かつて、イサーフ・イブン・バギーと、ナーイラ・ビント・ディークは、ジュルフム族の男女で、カアバで性的な関係を持つ罪を犯したため、神によって彼らは、石に変えられてしまったのだった。

 アブドッラー・イブン・アブー・バクル・イブン・ムハンマド・イブン・アムル・イブン・ハズムは、アムラ・ビント・アブドッ・ラハマーン・イブン・サアド・イブン・ズラーラから伝え聞いた話について語った。「アーイシャが、イサーフとナーイラは、ジュルフムの男女で、カアバで性的な関係を持っていたために、神は彼らを石に変えられてしまったと、私たちはいつも聞かされていた、と話したのを聞いた」。しかし、これが真実かどうかは、神だけがご存知である。

 アブー・ターリブ〔神の使徒のおじ〕は、次のように詠んだ。

 「イサーフとナーイラのほとりの水の流れるところで、

巡礼たちはラクダをひざまずかせる」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(61)

アムル・イブン・ルハイイの物語と、アラブにおける偶像崇拝(2)


 ヌーホ〔ノア〕の民は偶像を崇拝していた。神は、彼らについて使徒に、「かれらは言います。あなたがたの神々を捨てるな。ワッドもスワーアも、またヤグースもヤウークもナスルも、捨ててはならない。かれらは既に多くの者を迷わせました」(七一章二三、二四節)、と啓示を下された。

 イスマイールの信仰を捨てて、これらの偶像を選び、その名前を祭礼で使用した者の一人が、ホザーイル・イブン・ムドゥリカ・イブン・イルヤース・イブン・ムダルであった。彼は、スワーアを採用し、〔ヤンブー近郊の〕ルハートの地に祭った。クダーア族のカルブ・イブン・ワブラは、ワッドを採用して、ドゥーマトゥル・ジャンダルの地に祭った。

 カアブ・イブン・マーリク・アルアンサーリは、次のように詠んだ。

 「我らは、アッラートと、アルウッザと、ワッドを捨てた。

 我らは、彼らのネックレス、イアリングをはぎ取った」。

 タイイのアヌウムと、〔イエメンの〕ジュラシュの人びとは、ヤグースをジュラシュの地に祭った。

〔サヌアからマッカに向かって二日行程の〕ハムダーンのハイワーン族は、ヤウークをイエメンのハムダーンの地に祭った。

 ヒムヤルの民のズゥーウル・カラーア族は、ナスルをヒムヤルの地に祭った。

 〔イエメンの〕ハウラーン一族は、ハウラーンの地に、ウムヤーニスという名の偶像を持っていた。彼ら自身の話によると、彼らは、作物と牛を、ウムヤーニスとアッラーの間で分けていた。彼らが取りおいたアッラーの分が、ウムヤーニスの取り分に混じると、彼らはそれをそのままにしておいた。ところが、ウムヤーニスの分がアッラーの取り分に混じると、彼らはそれをウムヤーニスに返すのだった。そのような行為をしていたのは、ハウラーン一族の中のアルアディーム族であった。アッラーは、「彼らは、アッラーが創られた穀物と家畜の一部分を勝手な空想によって供えて、これはアッラーに、そしてこれはわたしたちの神々にと言う。だが神々に供えたものはアッラーには達しない。そしてアッラーに供えたものが、かれらの神々に達する。かれらの判断こそ災いである」(六章一三六節)、という啓示を下されたが、これはアルアディーム族にまつわる啓示と思われる。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(60)

アムル・イブン・ルハイイの物語と、アラブにおける偶像崇拝(1)


 アブドッラー・イブン・アブー・バクル・イブン・ムハンマド・イブン・アムル・イブン・ハズムは、彼の父が伝え聞いた伝承を、私に語った。「神の使徒は、私が、地獄で腸を引きずっているアムル・イブン・ルハイイに会い、彼の時代と私の時代の間の人々について聞いたところ、彼は、彼らは滅亡した、と答えた、と語られた」。

 ムハンマド・イブン・イブラヒーム・イブヌル・ハーリスッ・タミーミーは、アブー・サーリフッ・サンマーンがアブー・ホライラから伝え聞いた次のような話を、私に語った。「神の使徒がアクサム・イブヌル・ジャウヌル・ホザーイ〔ホザーア族〕に、おお、アクサムよ、私は地獄で腸を引きずっているアムル・イブン・ルハイイ・イブン・カマア・イブン・ヒンディフに会ったが、お前と彼ほどよく似ている二人の男に私は会ったことがない、と語られたとき、アクサムが、この類似は私をおとしめるのでしょうか、と尋ねると、使徒は、いや違う、お前は信者であり、彼は不信者であるからだ。アムル・イブン・ルハイイは、最初にイスマイールの信仰を変えて、偶像を建て、バヒーラ、サーイバ、ワスィーラ、ハーミー〔後述〕の区分にあたるラクダのみをハラーム〔禁断〕とする慣習を始めた者であるとお答えになった」。

 伝えられるところによると、イスマイールの子孫たちの間で、石に対する偶像崇拝が始まったのは、彼らにとってマッカが狭くなり、ほかの土地を求め始めたころのことである、という。街を離れる者は誰もが、崇拝するために聖域から石をとり、それを携えて出ていった。彼らは新たに定住したところにその石を安置し、カアバを回ったように、石の周りを回った。次第に彼らは、自分たちが気に入って、好ましい印象を持つ石ならば、何でもカアバの石の代用として儀式に用いるようになった。それから更に何世代も経過すると、彼らは信仰の根本を忘れ、イブラヒームとイスマイールの信仰に加えて、ほかの宗教を採用した。彼らは偶像を崇拝し、イブラヒーム以前の民族と同じ過ちを取り入れた。彼らは、イブラヒームの信仰にはない要素を取り入れながらも、カアバを崇拝して回ること、大小の巡礼、アラファとムズダリファの丘に立つこと、いけにえの犠牲、大巡礼と小巡礼の際の念誦などの、イブラヒームの時代から深く根づいている信仰行為も保持し続けた(コラム3を参照)。かくして、キナーナ一族とクライシュ一族が使った巡礼の念誦は、「主の意のままに、おお、神よ、主の意のままに。主の意のままに、主が所有されるものを除いて、主に仲間はいない」、といった。彼らは、この念誦で、神の唯一性を信仰しながらも、神の手に偶像を所有させて、偶像を神と一緒にしたのである。そこで神は、ムハンマドに、「かれらの多くは、アッラーを多神の一つとしてしか信仰しない。」(一二章一〇六節)、と啓示を下された。すなわち、彼らは、神の唯一性を認識しながらも、神を、神の被造物に並ばせたのである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(59)

ニザール・イブン・マアッドの子孫


 ニザール・イブン・マアッドは、三人の息子、ムダル、ラビーア、アンマールをもうけた。アンマールは、カスアムとバジーラの父である。

 神の使徒の系譜によれば、マアッドはアドナーンの息子(マアッド・イブン・アドナーン)であり、神の使徒が所属するクライシュ族はアドナーン(北方)系の部族だった。

 バジーラの子孫でバジーラ族の族長、ジャリール・イブン・アブドッラル・バジャリについて、ある詩人は詩を詠んだ。

「ジャリールがいなければ、

バジーラ族は滅びよう。

 バジーラ族は不運な部族であるが、

 彼はすばらしい男である」。

ジャリールは、アルフラーフィサル・カルビーに抗議して、アルアクラア・イブン・ハービスッ・タミーミー・イブン・イカール・イブン・ムジャーシブ・イブン・ダーリム・イブン・マーリク・イブン・ハンザラ・イブン・マーリク・イブン・ザイド・マナートに、

 「おお、アクラア・イブン・ハービスよ、おお、アクラアよ、

 汝の兄弟が征服されれば、汝も征服されよう」、

と訴え、次のように詠んだ。

 「お前たちニザールの二人の息子は、兄弟を助ける。

 私が知っている父は、お前の父だ。

 お前と同盟している兄弟は、今では、征服されないだろう」。

ニザールの子孫たちは、イエメンに行き、そこに定着した。

 ムダル・イブン・ニザールは、二人の息子、イルヤースとアイラーンをもうけた。イルヤースは、三人の息子、ムドゥリカ、タービハ、カマアをもうけた。彼らの母はヒンディフといい、イエメン人だった。ムドゥリカの名前はアーミル、タービハの名前はアムルである。伝えられるところによると、あるとき彼らは、ラクダを放牧させながら狩りをし、座って獲物を料理していると、突然、盗賊がラクダを襲った。アーミルは、アムルに、「お前はラクダを追跡するか、それとも獲物を料理するか」、と聞いた。アムルが、料理を続ける、と答えたので、アーミルはラクダを追いかけて取り返した。二人が帰ってこのことを父親に告げると、彼はアーミルに、「お前はムドゥリカ(追跡者)である」、アムルに、「お前はタービハ(料理人)である」、と言った。知らせを聞いた母親が、テントから小走りに出てくると彼は、「お前はせっかち(ヒンディフ)だ」、と言ったので、彼女はヒンディフと呼ばれるようになった。

 カマアについては、ムダルの系譜を研究した学者は、ホザーア族が、アムル・イブン・ルハイイ・イブン・カマア・イブン・イルヤースの子孫である、と主張している。