2012年8月25日土曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(89)

アルフドゥールの誓約(5)


 マトルードは、「あなたの詩は、非常に良くできている。だが、あなたがこの主題をもっと適切に表現したならば、詩はさらに素晴らしくなったであろう」、と周囲の人びとから言われた。そこで彼は、「一晩か二晩、時間がほしい」、と答え、二、三日後にさらに次のように詠んだ。

 「おお、大いに泣いて、そなたの涙をあふれさせよ、

 ムギーラの息子たちのために泣け、あのカアブの高貴な血統のために、

 おお、泣きやむな、そなたの涙を集めて、

 心から嘆き悲しめ、生涯の不幸の悲しみを。

 寛大で信頼される男たちのために泣け、

 彼らの贈り物は潤沢で、気前よく、惜しみなかった、

 彼らの魂は純正で善意に満ち、

 彼らの気質は堅固で、重大事には断固としていた、

 非常時に強く、ひるみなく、誰にも頼らなかった、

 決断は速く、気前のよさには限りがなかった。

 カアブの家系をたどれば、それは鷹、

 栄光の的、絶頂に至る、

 寛大さと、惜しみのないムッタリブのために泣け、

 そなたの涙の泉を解き放て、

 今日、ラドマーンで、我らから異邦人として去っていった、

 我が心は死んだ彼のために悲嘆に暮れる。

 そなたには災いだ、泣きたければ泣け、

 カアバの東のアブド・シャムスのために、

 彼の遺骸の上をガザの風が吹く。

 とりわけ我が友、ナウファルのために泣け、

 サルマーンの砂漠に墓を見つけた。

 我は彼らのような男たちを見たことがない、アラブの中にも異邦人の中にも、

 白いラクダが彼らを乗せて行くとき。

 もはや彼らの野営はどこにもない、

 我らの隊列の輝きだったものだが。

 時が彼らを滅ぼしてしまったのか、それとも彼らの剣が鈍ってしまったのか、

 あるいは、生きとし生けるものは運命の餌食にされるのか。

 彼らが死んでからというもの、我が満足するのは、

 ほほ笑みと友好的な挨拶でしかなくなった。

 髪を乱した女たちの父のために泣け、

 彼女たちは、死が迫ったラクダのようにベールを外して父のために泣く。

 彼女たちはこれまで歩いた者のうちで最も気高い男を悼む、

 涙の洪水で彼を追悼する。

 人びとは気前がよく寛大な男を悼む、

 不正を拒否し、問題を解決した最も偉大な男を。

 アムル・アルウラー〔高貴なアムル・ハーシム〕の死期が近づいたとき、

 人びとは彼のために泣いた、

 彼の優しい気質は、夜の来客を笑顔で迎えた。

 人びとは悲嘆にひれ伏して泣いた、

 悲嘆と哀悼のなんと長いことよ。

 人びとは彼の死から時間が過ぎ去ったとき、彼を惜しんだ、

 人びとの顔は、水を取り上げられたラクダのように青ざめた。

 運命の一撃の重大さのために。

 私は悲嘆にくれ星を眺めながら夜を過ごした、

 私は泣き、幼い娘は泣いて悲嘆を分かち合った。

 彼らに並び匹敵する王子はいない、

 残された人びとのなかで彼らのような者はいない。

 彼らは、一族の中で最高の息子たちであった。

 困難に直面したとき、彼らは最高の男たちであった。

 彼らは、滑らかに速く走る馬をいったい何頭、人に与えたことだろう、

 捕獲した雌馬を何頭贈ったことか、

 見事に鍛えられたインドの剣をどれだけ、

 井戸のつるのように長い槍をいくつ、

 求める人たちに何人の奴隷を与えたことか、

 贈り物をあまねく惜しみもなく。

 私が数えても、そしてほかの者たちが一緒に数えても、

 私は彼らの気前のよさを枯渇させられない。

 彼らは純血な血統の中で最も優れている、

 いかなる者が彼らの祖先を自慢しようとも、

 彼らが遺した家の飾り、

 だから彼らは孤独で見捨てられた、

 私は泣きやまないうちに言おう、

 神よ、不幸な(家族を)救い給え、と」。

 「髪を乱した女たちの父」、という言葉でこの詩人は、ハーシム・イブン・アブド・マナーフを意味している。

 叔父のアルムッタリブの後、アブドゥル・ムッタリブ・イブン・ハーシムは、巡礼者たちに食と水を提供する責務を継承し、彼の一族と共に父祖たちの慣習を実践した。この後彼は、父祖たちの誰も獲得したことのないような高貴さを達成したので、人びとは彼を愛し、彼の名声は偉大となった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(88)

アルフドゥールの誓約(4)


 その後、アルムッタリブは、イエメンのラドマーンで亡くなり、あるアラブの詩人は彼を悼んで詠んだ。

 「アルムッタリブ亡き後、巡礼は渇いている、

 もはやお椀があふれることはない。

 彼が去った今や、クライシュは苦しみの中にいる」。

 マトルード・イブン・カアバル・ホザーイは、アブド・マナーフの最後の息子ナウファルが亡くなったという知らせを聞いたとき、次の哀歌を詠んだ。

 「おお、夜よ、なんと悲惨な夜よ、

 すべての夜の平安を乱す夜よ、

 悲しみと運命の一撃に悩む思いで乱される。

 私の兄弟ナウファルを思い出すとき、

 彼は私に過ぎ去った日々を追憶させる、

 彼は赤い飾り帯と

美しく新しい外套を思い出させる。

 彼ら四人は、みな貴公子であった、

 王族の子孫たちよ。

 一人はラドマーンで、一人はサルマーンで、

三人目はガザの近くで、

 四人目はカアバ近くの墓に横たわっている、

 神聖な神殿の東側に。

 アブド・マナーフは、彼らを気高く育成した、

 だれからも非難されることのない人物に。

 ムギーラの子孫のような者はいない、

 生きた者の中にも、死んだ者の中にも」。

 アブド・マナーフは、アルムギーラと呼ばれた。彼の息子たちのうち、ハーシムが最初にシリアのガザで、つぎにアブド・シャムスがマッカで、次にアルムッタリブがイエメンのラドマーンで、最後にナウファルがイラクのサルマーンで死んだ。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(87)

アルフドゥールの誓約(3)


 初めて、夏と冬の隊商の旅を組織し、マッカでサリード(パンを浸したスープ)を施したのは、ハーシムだった、と言われている。実際の名前はアムルだったが、彼がこのようにしてマッカで巡礼者たちのためにパンをちぎったことが、ハーシム〔パンを砕く人〕と呼ばれるゆえんである。クライシュ、またはアラブのある詩人は、次のように詠んだ。

 「アムルこそ、民のためにパンをちぎり、サリードをつくった。

 欠乏の時代を過ごしたマッカの民のために。

 彼は二つの隊商を始めた、

 夏のキャラバンと、冬のラクダの列を」。

 ハーシム・イブン・アブド・マナーフは、商品を運んで旅しているとき、シリアの地のガザで亡くなり、アルムッタリブ・イブン・アブド・マナーフが、巡礼者たちに食や水を提供する権限を継承した。彼は、アブド・シャムスやハーシムより若かったが、人びとの間で人望が厚く、気前のよさと高潔な性格から、人びとは彼を「アルファイド」〔高潔な人〕と呼んだ。

 ハーシムは、マディーナに行ったときに、アディーユ・イブヌン・ナッジャールの部族のサルマ・ビント・アムルと結婚していた時期があった。彼女はハーシムとの結婚以前に、ウハイハ・イブヌル・ジュラーハ・イブヌル・ハリーシュ・イブン・ジャハジャバ・イブン・クルファ・イブン・アウフ・イブン・アムル・イブン・アウフ・イブン・マーリク・イブヌル・アウスと結婚し、アムルという名の息子をもうけていた。彼女は部族の間では高貴な地位にあり、離婚権を彼女が有するという条件でしか結婚を承諾しなかった。そのため、結婚相手を嫌えば、彼女はその相手から離れた。

 彼女は、ハーシムとの間にアブドゥル・ムッタリブを産み、シャイバと名付けた。ハーシムは、シャイバが幼いころ彼女と別れた。そこでアブドゥル・ムッタリブの叔父のアルムッタリブは、自分の部族の間で育てるため、彼を引き取りに行った。だが、サルマは、彼を手放そうとはしなかった。叔父は、甥は旅をするのに十分成長しており、彼はカアバを実質的に統治し、マッカで偉大な名声を得ている一族から離散させられているため、少年にとっては自分自身の一族と共にいるほうがよいと説得し、彼を伴わないでマディーナから去ることを拒絶した。シャイバは母親の同意なしにマディーナを離れることを拒否したと伝えられており、彼女は最終的には彼を手放すことに同意した。そこで、叔父が彼をラクダの背中の後ろに乗せて、マッカに連れて帰ると、人びとが、「あれはアルムッタリブが買った奴隷だ」、と言ったので、彼はシャイバ・アブドゥル・ムッタリブアルムッタリブの奴隷シャイバと呼ばれるようになった。叔父のアルムッタリブは、「ばかばかしい、彼はマディーナから連れ帰った私の甥である」、と言った。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(86)

アルフドゥールの誓約(2)


 また同様に、ヤズィードは、ムハンマド・イブン・イブラヒーム・イブヌル・ハーリス・アッタイミから伝え聞いた話を私に語った。クライシュの中で最も学識のあったムハンマド・イブン・ジュバイル・イブン・ムトゥイム・イブン・アディーユ・イブン・ナウファル・イブン・アブド・マナーフは、アブドゥル・マリク・イブン・マルワーン・イブヌル・ハカムが、イブヌッ・ズバイルを殺し、人びとがアブドゥル・マリクに敵対して集まったとき、アブドゥル・マリクと会った。アブドゥル・マリクは、ムハンマド・イブン・ジュバイルに会うと、「おお、アブー・サイード〔ムハンマド・イブン・ジュバイル〕よ、我らとあなたがた(アブド・シャムスの部族とナウファル族)は、フドゥールの誓約の当事者ではなかったではないか」、と尋ねた。ムハンマドは、「あなたが一番ご存知である」、と答えた。アブドゥル・マリクは、「いや、アブー・サイードよ、真実を語ってほしい」、とまた問いかけた。すると彼は、「そうだ、神に誓って、我らは誓約を結ばなかった」、と答えた。「あなたの言うとおりだ」、とアブドゥル・マリクは言った」。

 初代正統カリフ、アブー・バクルの孫であり、預言者の妻アーイシャの甥でもあるアブドゥッラー・イブヌッ・ズバイルは、アルホサインが死去すると、ウマイヤ朝に対抗してマディーナでカリフを宣言、六八三年と六九二年の二度にわたってウマイヤ軍と戦闘したが、二度目の戦いで切り倒された。これは、ウマイヤ朝カリフのアブドゥル・マリクが、ウマイヤ家は「フドゥールの誓約」の当事者ではなかったことを、ムハンマド・イブン・ジュバイルに確認したことを意味する。二度の戦闘でマッカのカアバ神殿は焼失したが、その後再建された。

 アブド・シャムスは旅がちで、マッカにほとんどいなかったために、ハーシム・イブン・アブド・マナーフが巡礼者たちに食や水の提供を監督した。しかも、アブド・シャムスは貧しく、大家族であったが、ハーシムは裕福だった。巡礼者たちがマッカにやって来ると、彼は立ち上がってクライシュ一族に、「皆は神の隣人で、主の神殿の民である。この祝祭で、神への訪問者、カアバへの巡礼が皆のところにやって来た。彼らは神の客人であり、主の客人は皆の気前のよさを求める最も正当な権利を持っている。だから、彼らがここに滞在している間、団結して彼らに必要な食べ物を集めよう。もし、私の財産が十分であれば、私はこの負担を皆に負わすことはない」、と呼びかけた、と伝えられている。そこでクライシュ一族は、互いの財力に応じて税金を課し、巡礼者たちがマッカを離れるまで、彼らに食べ物を提供していた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(85)

アルフドゥールの誓約(1)


 クライシュ一族は、盟約を結ぶことを決め、その目的のために、年長者で信望の厚かった、アブドッラー・イブン・ジュズアーン・イブン・アムル・イブン・カアブ・イブン・サアド・イブン・タイム・イブン・ムッラ・イブン・カアブ・イブン・ルアイイの家に集まった。盟約の当事者は、ハーシム、バヌール・ムッタリブ、アサド・イブン・アブドゥル・ウッザ、ズフラ・イブン・キラーブ、タイム・イブン・ムッラの部族だった。もし誰かが、たとえその者がマッカの住人であれ、あるいはよそ者であれ、彼らに不正を働いたならば、敵対者に反撃し、奪われた財産を取り戻す、という厳粛な誓約で、彼らは団結した。クライシュ一族は、この同盟をアルフドゥール道徳者たちの誓約、と呼んだ。

 ムハンマド・イブン・ザイド・イブヌル・ムハージル・イブン・クンフズ・アッタイミは、タルハ・イブン・アブドッラー・イブン・アウフ・アッズフリーが聞いたことを私に語った。「神の使徒は、私は、アブドッラー・イブン・ジュズアーンの家の中に、いかなる数の優良なラクダとも交換できない同盟を目撃した。もしイスラームの時代にこのような同盟に参加するよう招請されたならば、きっと私は参加したであろう、とおっしゃった」。

 ヤズィード・イブン・アブドッラー・イブン・ウサーマ・イブヌル・ハーディ・アッライスィは、ムハンマド・イブン・イブラヒーム・イブヌル・ハーリス・アッタイミから伝え聞いた話を私に語った。アルホサイン・イブン・アリー・イブン・アブー・ターリブと、アルワリード・イブン・ウトゥバ・イブン・アブー・スフヤーンの間に、彼らがズル・マルワに持っていた財産をめぐる争いがあった。その時、アルワリードは、ウマイヤ朝初代カリフであった伯父ムアーウィヤの任命で、マディーナの総督に就いていた。アルワリードは、総督として権力を持っていたので、アルホサインの権利をだまし取った。そこでアルホサインは、「神にかけて、お前は私に正義を行わねばならない、さもなければ、私は剣をとり、使徒のモスクに立って、フドゥールの誓約に訴える」、とアルワリードに言った。当時、アルワリード側についていたアブドッラー・イブヌッ・ズバイルでさえ、「神に誓って、もしアルホサインが誓約に訴えるのならば、私も剣をとって彼と共にあり、彼に正義が行われるか、あるいは共に死ぬまで戦う」、と言った。この知らせが、アルミスワル・イブン・マハラマ・イブン・ナウファル・アッズフリーとアブドッ・ラハマーン・イブン・ウスマーン・イブン・ウバイドッラー・アッタイミに届くと、彼らも同じように宣言した。何が起きているかを察知したアルワリードは、アルホサインを満足させた。

 アルホサインは、預言者の娘ファーティマと第四代正統カリフ・アリーの息子で、ムアーウィヤの息子ヤズィード・イブン・ムアーウィヤがカリフ職を世襲することを拒否した。アリーは預言者の従弟でもあったので、カリフ職は預言者に最も近い血縁者が継承すべきであるとするシーア(アリー)派の支援を受けて、カリフを宣言するためイラクに向かったが、六八〇年、カルバラーでヤズィードが派遣した軍勢によって殺された。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(84)

クサイイ後のクライシュ一族の分裂と、アルムタィイブーン(香る者たち)同盟


 クサイイの死後、彼の息子たちはクライシュ一族を統治し、クサイイが人びとのために土地を割り当てたように、マッカを居住区に区画した。息子たちは、彼らの民と、同盟部族のために居住区を分割して、売り払った。クライシュ一族は、不和、対立することなく、この分割に参加した。その後、アブド・マナーフの息子たち、すなわちアブド・シャムス、ハーシム、アルムッタリブ、ナウファルは、クサイイがアブドッ・ダールに与え、アブドッ・ダールの息子たちが握っていた権限、とりわけ前述したような権限を、奪取することで合意した。彼らは、自分たちの優位性と部族の間の地位から判断して、自分たちの方がよりふさわしい権利を持っていると考えたのである。この結果、クライシュ一族は、アブド・マナーフの部族、アブドッ・ダールの部族の二派に分裂した。前者は、自分たちがより正当な権利を有していると主張し、後者は、クサイイが自分たちの部族に与えた権限はその部族から奪われないと主張した。

アブド・マナーフの部族の首領は、長男のアブド・シャムス、アブドッ・ダールの部族の首領は、アーミル・イブン・ハーシム・イブン・アブド・マナーフ・イブン・アブドッ・ダールだった。アブド・マナーフの部族に味方したのは、アサド・イブン・アブドゥル・ウッザ・イブン・クサイイ、ズフラ・イブン・キラーブの部族、タイム・イブン・ムッラ・イブン・カアブの部族、アルハーリス・イブン・フィフル・イブン・マーリク・イブヌン・ナドゥルの部族で、アブドッ・ダールの部族の側についたのは、マフズーム・イブン・ヤカザ・イブン・ムッラ、サハム・イブン・アムル・イブン・ホサイス・イブン・カアブの部族、ジュマハ・イブン・アムル・イブン・ホサイス・イブン・カアブの部族、アディーユ・イブン・カアブの部族だった。このとき、中立を保ったのは、アーミル・イブン・ルアイイとムハーリブ・イブン・フィフルの部族であった。

 彼らは、永遠に、決して味方を見捨てず、裏切らない、と固く誓い合った。アブド・マナーフの部族は、(部族のある女が用意したと、彼らが主張している)香水をいっぱいに満たした壺を持って来て、カアバのそばのモスクの中に、同盟者たちのために置いた。そして彼らと、彼らの同盟者は手を壺のなかに入れて、厳粛な誓いを立てた。それから彼らは、手をカアバにこすり付けて、誓約をさらに厳粛なものとした。この理由によって彼らは、「香る者たち」と呼ばれた。

 もう一方の側もカアバで同様の誓約を結び、彼らは「同盟者」と呼ばれた。次に彼らは部族ごとにグループを構成し、部族と部族が対決するようにした。アブド・マナーフの部族にはサハム族、アサド族にはアブドッ・ダールの部族、ズフラ族にはジュマハ族、タイム族にはマフズーム族、アルハーリス族にはアディーユ・イブン・カアブの部族が敵対した。彼らは、それぞれの敵対部族を全滅させるよう命令を受けた。

 彼らがこのように戦闘を決意したとき、アブド・マナーフの部族が巡礼者たちに水を与え、税金を徴収する権利を行使し、一方、アブドッ・ダールの部族は、カアバに入る許可、軍旗の授与、集会の主催の権限を保持するという条件の下で、突然、和平が審議された。双方はこの和平取引を好意的に受け止めたので、和解が成立し、戦争は回避された。神がイスラームをもたらされるまで、マッカにおける統治事情はこのようであり、神の使徒は、「無知の時代にいかなる同盟があろうとも、イスラームは正義と善行を強化する」、と語られた。

2012年8月6日月曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(83)

クサイイ・イブン・キラーブは、いかにしてマッカの実権を握ったか、彼はいかにしてクライシュを団結させたか、そしてクダーアが彼に与えた支援について(4)


 リザーハ族が彼の領土に定着すると、神はリザーハとホンの部族の子孫を繁栄させられた。(彼らは今日のウズラの二つの部族である)。リザーハが領土に戻ると、リザーハ族と、クダーア一族のナフド・イブン・ザイドの部族とハウタカ・イブン・アスラムの部族の間で争いが起きた。リザーハを恐れて、彼らはクダーアの地を離れてイエメンに行き、今日までイエメンに残っている。ところがクサイイは、リザーハと親族関係にあったにもかかわらず、彼が支援を要請したときにクダーア一族が善意を示してくれたことから、クダーアに好意を抱き、彼らが自らの土地で子孫を繁栄させて団結してほしいと望んでいた。クサイイは、リザーハがクダーアの民にしたことを嫌って、次のように詩を詠んだ。

 「誰か我からリザーハに言ってくれ、

 我は二つのことで彼を責めると、

 我はナフド・イブン・ザイドの部族のためにお前を責める、

 なぜならお前は、彼らと我の仲を裂いたからである、

 そしてハウタカ・イブン・アスラムのためにお前を責める。

 彼らに不義を行う者は、我に不義を行う者である」。

 クサイイが年老いて衰弱すると、彼は息子のアブドッ・ダールに話した。彼は長男だったが、クサイイが生きている間、アブド・マナーフが有名になり、アブドゥル・ウッザとアブドと共に、なすべきことすべてを行っていた。クサイイは、アブドッ・ダールに、「我が息子よ、神にかけて、私はお前をほかの息子たちと同等の地位に就けよう。彼らはお前よりも大きな評判を得ているが、お前が彼らのために開けるまで誰もカアバに入ることはない。お前がお前自身の手で与える以外、誰もクライシュに軍旗を与えることはない。お前が許さない限り、誰もマッカで水を飲むことはない。お前が給食しなければ巡礼が食することはない。そしてお前の家以外で、クライシュがいかなる問題をも決定することはない」、と言った。クサイイは、自分の家を彼に与え、そこはクライシュがあらゆる問題を解決できる唯一の場所となり、クサイイが言及したすべての公の権威は彼に相続された。

 リファーダとは、祝祭の度にクライシュ一族が、彼らの財産からクサイイに支払う税金であった。クサイイは、この税金で、自分たちの糧食を賄えない巡礼たちに給食していた。クサイイは、クライシュ一族の間では、この税金の支払いを義務とし、「皆は神の隣人、神のカアバと聖域の民である。巡礼は神の客人、カアバへの訪問者であり、皆の気前のよさを請求する最も正当な権利を有している。だから巡礼の期間中、彼らがこの地を去るまで、彼らに食物と水を提供しなさい」、と言った。そこで彼らは毎年、家畜に課された税金をクサイイに払い、各地からやってきた巡礼者たちがミナに滞在している間、クサイイは、彼らに食を提供し、そして彼の民は、イスラームが到来するまでの無知〔ジャーヒリーヤ〕の時代、彼のこの命令に従っていた。イスラームの時代となってから今日に至るまで、毎年、巡礼が終わるまでミナで食を提供しているのはスルタンである。

 私の父、イスハーク・イブン・ヤサールは、このクサイイに関する出来事と、彼の権限の委譲に関して、私に語った。「アルハサン・イブン・ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブー・ターリブは、このことを、ヌバイヒ・イブン・ワハブ・イブン・アーミル・イブン・イクリマ・イブン・アーミル・イブン・ハーシム・イブン・アブド・マナーフ・イブン・アブドッ・ダール・イブン・クサイイという名のアブドッ・ダールの子孫と話した。アルハサンは、クサイイは、彼の民に対して持っていたすべての権限を委譲した。クサイイは、矛盾したことも、また彼の決定が覆されたこともなかった、と語った」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(82)

クサイイ・イブン・キラーブは、いかにしてマッカの実権を握ったか、彼はいかにしてクライシュを団結させたか、そしてクダーアが彼に与えた支援について(3)


 サアラバ・イブン・アブドッラー・イブン・ズビヤーン・イブヌル・ハーリス・イブン・サアド・ホザイムル・クダーイは、クサイイの招請と彼らの応答に言及して詩を詠んだ。

 「我らはすらりとした大股の駿馬を駆り立てた、

 アルジナーブの砂丘からティハーマの低地まで、

 そして敵に遭遇した、

 砂漠の不毛の窪地で。

 女々しいスーファたちは、

 剣を恐れて自らの住居を放棄した。

 だがアリー部族の者たちは我らを見たとき、

 家をこがれて疾駆するラクダのように勇猛に剣を抜いた」。

 クサイイ・イブン・キラーブは、詠んだ。

 「我は守護者、ルアイイ族の子孫なり、

 マッカには我が育った家がある。

 我の谷は、マアッドの知る谷である、

 我は楽しむ、マルワの丘で。

 カイザルとナービトの子孫たちが定住しなかったならば、

我はその地を征服することはなかった。

 リザーハの民は我が支援者であり、我は彼らのために偉大である、

 我は生きている限り不正を恐れない」。

 すなわちイスマイール・イブン・イブラヒームの十二人の息子たちの子孫。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(81)

クサイイ・イブン・キラーブは、いかにしてマッカの実権を握ったか、彼はいかにしてクライシュを団結させたか、そしてクダーアが彼に与えた支援について(2)


 クライシュ一族は、彼らの居住区にある聖域の樹木を切り倒すことを畏れたが、クサイイは自分自身の手で、あるいは手助けを借りて、樹木を切り倒した、と伝えられている。クサイイは、クライシュ一族を統合させ、吉兆をもたらしたので、クライシュの人びとは、彼を「統合者」と呼んだ。クライシュ一族に関する限り、クサイイの家以外の場所で、娘の結婚が決定されたり、息子が結婚したり、公共の問題が討議されることは、一切あり得なかった。さらに彼の家以外の場所で、クサイイの息子の一人によって軍旗が誰かに委託されることも決してなかった。クライシュの娘たちが結婚適齢期に成長すると、その娘はクサイイの家に行って、婚礼衣装を着る慣わしがあった。彼の家で、婚礼衣装は準備され、娘たちはそれを着て、家族のもとへ連れていかれた。クサイイの権威は、クライシュ一族の間では、彼の生存中も死後も、侵害することの決してできない宗教法のようであった。彼は、集会場を建て、そこからカアバのモスクに通じる入り口を作った。クライシュ一族が、自分たちの問題を解決したのは必ずこの集会場であった。

 アブドゥル・マリク・イブン・ラーシドは、彼の父がアルマクスーラ〔貴賓室〕の著者であるアッサーイブ・イブン・ハッバーブから聞いた話を、父から伝え聞いて私に次のように語った。「ある人がカリフのウマル・イブヌル・ハッターブに、クサイイがいかにしてクライシュを統合して、ホザーア族とバクル族をマッカから追放し、カアバとマッカの問題を統治するようになったかという物語を語った。この時、ウマルは、その者に反論しなかった」。

 クサイイの戦争が終わると、彼の異父弟、リザーハ・イブン・ラビーアは、同胞と共に故郷に帰っていった。兄クサイイの要請に応えた史実について、彼は次のような詩を詠んだ。

 「クサイイから使者がやって来て、

 あなたの友の要請に答えよと言ったとき、

 我らは騎乗して彼の支援に跳び出した、

 ためらいと怠慢をかなぐり捨てて。

 我らは夜明けまで夜を徹して疾駆した、

 昼間は、攻撃を避けて隠れながら。

 我らの騎馬は、水鳥のように俊敏だった、

 クサイイの呼びかけへの我らの応えを携えて。

 我らはシッルとアシュマズの両部族を集め、

 そのほかの部族も集めた。

 その夜は、なんと見事な騎馬軍団であったことか、

 俊敏に疾駆する千騎以上の軍団だった。

 アスジャドを通過し、

 ムスタナフから快適な道をとって、

 ワリカーンの端を通り、

 アルアルジを通過して野営した。

 いばらの繁みを刈り取ることなく過ぎ去って、

 マッルから一晩中、激しく駆けた。

 我らは子馬を彼らの母親の近くで育てた、

 彼らのいななきがやさしいように。

 そして我らがマッカに至ったとき、

 我らは一つずつ部族を滅ぼしていった。

 マッカで彼らを剣の端で打ち、

 剣を振るうたびに彼らの正気を失わせた。

 我らは馬のひづめで彼らを踏みつけた、

 つわものが弱者や救いのない者を踏みつぶすがごとく。

 我らはホザーアを彼らの本拠地で殺した、

 そしてバクルの集団を殺した。

 我らは彼らを神の土地から追放した、

 我らは彼らに豊かな地を所有させなかった。

 我らは彼らに鉄の足かせをはめた。

 我らはすべての部族に対して復讐心を満たした」。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(80)

クサイイ・イブン・キラーブは、いかにしてマッカの実権を握ったか、彼はいかにしてクライシュを団結させたか、そしてクダーアが彼に与えた支援について(1)


 その年、スーファたちは、いつものように振る舞っていた。アラブの人びとは、ジュルフム族とホザーア族が統治していた時代、それが義務であると考えて、辛抱強く耐え忍んでいた。クサイイは、クライシュ、キナーナ、クダーアの族長たちを引き連れて、アルアカバでスーファたちに向かって、「我々は、お前たちより正当なマッカの統治権を持っている」、と宣言した。激しい戦闘の末、スーファは敗北し、クサイイが権力を握った。

 すると、ホザーア族とバクル族は、クサイイがスーファたちと同様に彼らに制約を課し、カアバと彼らの間に割り込み、マッカの管理にも介入して来ると考えて、クサイイから距離を置いた。彼らが距離を置くと、クサイイは敵意をあらわにし、彼らと戦うため軍勢を集めた。ホザーア族とバクル族も出撃し、マッカの谷で激戦が行われ、双方は共に重大な損害を被った。そこで彼らは、和平することに合意し、アラブの一人に調停を要請することにした。調停役に任命されたのは、ヤアマル・イブン・アウフ・イブン・カアブ・イブン・アーミル・イブン・ライス・イブン・バクル・イブン・アブド・マナート・イブン・キナーナであった。彼の判定は、クサイイがホザーア族よりも正当なカアバとマッカの統治権利を持っており、クサイイが流した血は無効で、その血の代償は無視されるが、ホザーア族とバクル族が殺したクライシュ、キナーナ、クダーアの各部族の血は補償されねばならず、またクサイイにはカアバとマッカでの行動の自由が与えられる、というものだった。ヤアマル・イブン・アウフは、血の代償金を無効とし、免除したので、すぐに、アッシャッダーハ無効・免除と呼ばれるようになった。

 かくしてクサイイは、カアバとマッカの統治権を掌握し、自分の一族を居住地からマッカに連れて来た。彼は、自分の一族とマッカの住民に対し王のように振る舞ったので、彼らは彼を王として崇めた。だが彼は、アラブの慣習的な権利を変更する権利を持っておらず、それを保証するのが彼の義務だと感じて、人びとに慣習的な権利を保証した。そこで彼は、サフワーン族、アドワーン族、暦調節師、ムッラ・イブン・アウフの部族が持っていた慣習的な権利を、イスラームの到来によって神がこれらの権利のすべてを停止されるまで、承認した。クサイイは、カアブ・イブン・ルアイイの部族で、初めて王権に就き、王として部族を従えた最初の人物である。彼は、カアバの鍵を管理し、ザムザムの泉から巡礼者たちに給水し、給食する権利、集会を主宰し、軍旗を授ける権利を保有した(コラム4を参照)。彼の手にマッカの権威のすべてが集中し、彼は自らの一族のためにマッカの街を各居住区に分割し、すべてのクライシュ一族をマッカの家に住まわせた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(79)

アーミル・イブン・ザリブ・イブン・アムル・イブン・イヤード・イブン・ヤシュクル・イブン・アドワーン


 前述したフルサーンの詩の中で、「決定を下す法官」、と言われた人物は、アーミル・イブン・ザリブ・イブン・アムル・イブン・イーヤード・イブン・ヤシュクル・イブン・アドワーンのことである。当時、アラブの人びとは、重大で困難な問題の判断をすべてアーミルに委ね、彼の決定に従っていた。ある時、たまたま両性具有者に関係する係争が彼に持ち込まれた。人びとは、「我々は、男として扱うべきか、それとも女として扱うべきか」、と言った。人びとがそれまで、そのように困難な問題を彼に持ち込んだことはなかったので、彼は、「この問題について調べるまでしばらく待ってほしい。神にかけて、これまで、これほど難しい問題が持ち込まれたことはない」、と言った。彼らは待つことに同意、アーミルは、この問題についてあれこれ思案し、あらゆる観点から検討したが、結論を得ることができず、眠れぬ夜を過ごしていた。彼は、彼の家畜を放牧していたスハイラという奴隷の少女を所有していた。彼女が朝、出かけていくとき、彼は、「スハイラ、今朝は早いではないか」、と皮肉っぽく言って、彼女をからかうのが常だった。そして彼女が夕方遅く帰ってくると、彼女は、朝は遅く出かけて行き、夕方もほかの者に遅れて戻るため、「スハイラ、今晩は遅いではないか」、と言うのだった。この少女は、彼が寝床で寝返りをうち眠れないでいるのを見て、「何を悩んでいるのですか」、と彼に尋ねた。彼は、「出ていけ、独りにしておいてほしい。お前には関係のないことだ」、と言い返した。ところが、彼女があまりにしつこかったので、彼は、もしかして彼女がこの問題で何らかの解決策を与えてくれるかもしれない、と考え、「それほどまでに言うのなら話すが、実は私は、ふたなりの相続について裁くように頼まれているのだ。その者を男として扱えばよいのやら、それとも女として扱えばよいのやら。神にかけて、私はどうしたらよいか分からず、答えが出ないのだ」。彼女は、「まあ、驚いた、簡単ですよ。その人が用を足す仕方に従えばいいじゃないですか」、と言った。「これからは好きなだけ遅れてもいいよ、スハイラ。お前は私の問題を解決してくれた」、と彼は言った。そして翌朝、彼は人びとのところに出かけていき、彼女が示唆した解決策を彼らに伝えた。

 男子は女子の二倍を相続する慣習だった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(78)

アドワーン族とムズダリファの出発儀式


 指が一つないことから、ドゥーウル・イスバア〔指の人〕と呼ばれた、アドワーン族のフルサーン・イブン・アムルは次のように詩を詠んだ。

 「アドワーンの部族を大目にみてやれ。

 彼らは大地の蛇なのだ。

 ある者たちは他人に不正を働き、

 ある者たちは他人を許さなかった。

 ある者たちは王子であった、

 彼らの義務を忠実に守る。

 ある者たちは、人びとに離れる合図を送ったものだ、

 慣習と神聖な命令によって。

 彼らの一人は決定を下す法官だった、

 彼の判決が取り消されたことはない」。

 アドワーン族は巡礼者たちにムズダリファから離れる許可を与えていたため、彼らはこの権利を父から子へと継承していたが、イスラームの到来によってこの継承は終止符を打たれた。最後の継承者となったアブー・サイヤーラ・ウマイラ・イブヌル・アーザルについて、ある詩人はこう詠んでいる。

 「我らはアブー・サイヤーラとファザーラ族に守られていた。

  彼はマッカに向かい、その守護者に祈りながら、

ロバを安全に通過させた」。

アブー・サイヤーラは、黒い雌ロバの背に乗りながら、巡礼者たちを送り出していた。そこで詩人は、「ロバを安全に通過させた」、と詠んだのである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(77)

巡礼に対するアルガウスの権威


 アルガウス・イブン・ムッラ・イブン・ウッド・タービハ・イブン・イルヤース・イブン・ムダルは、巡礼者たちにアラファの丘から離れる許可権を持っており、この職務は彼の子孫に代々継承された。彼とその子孫はスーファと呼ばれていた。アルガウスの母はジュルフムの不妊の女だったが、アッラーに願をかけ、もし子を産んだならば、アッラーの奴隷として子を神にささげ、カアバの世話をさせることを誓ったので、アルガウスはこの務めを果たすようになった。アルガウスは、古くからジュルフム族のおじたちと共にカアバに仕え、巡礼がアラファの丘から離れる許可を与えてきた。彼の子孫は、カアバから追放されるまで職務を継承した。

ムッラ・イブン・ウッドは、自分の妻の誓願が成就したことに言及して、次のように詩を詠んだ。

 「おお、主よ、我は息子の一人を、

 至聖のマッカの敬虔な信者といたしました。

 それゆえ、成就した祈願のために、我を祝福し給え、

 そして、息子を我の名誉のために、最良の被造物となし給え」。

 アルガウスは、アラファから人びとを送り出したとき、次のように述べたと伝えられる。

 「おお、神よ、私は前例を範として従っております。

 もしそれが間違っているのであれば、それはクダーアの過ちです」。

 ヤヒヤ・イブヌッバード・イブン・アブドッラー・イブヌッ・ズバイル・イブヌル・アッワームは、彼の父であるアッバードから伝え聞いた話として、「スーファは、アラファへ巡礼者たちを送り出す。彼らは巡礼者たちがミナからアラファへ向かう許可を与えていた」、と語った。石投げの儀式の日には、巡礼者たちは石を投げにやって来たが、スーファの中の担当者が先ず石を投げるまでは、人びとは石を投げなかった。急用のある者たちが、スーファのところにやって来て、「立て、そして我らが早く石を投げられるように、すぐに石を投げろ」、とせかすと、スーファは、「否、神にかけて、日が西に傾くまで、私は〔日が真南に昇る〕南中を過ぎるまでは決して石を投げない」、と答えるのだった。すると、急いで離れたい者たちは、「いまいましい、すぐ石を投げろ」、と言いながら、急がせるために、スーファに石を投げつけた。それでも彼は、南中まで石を投げることを拒否し続け、南中時を過ぎるとやっと石を投げ、そして人びともスーファに倣って石を投げるのだった。

 アッズバイル・イブヌル・アッワームは、預言者と最も親密だった教友の一人で、そのために天国を約束された十人の一人。初代カリフ、アブー・バクルの娘、アスマア・ビント・アブー・バクルとの間にもうけたアブドッラー・イブヌッ・ズバイルは、ムスリムがマッカからマディーナに聖遷した直後に生まれ、聖遷後初のムスリムとなった。預言者はナツメヤシの実を砕いてアブドッラーの唇にこすって祝福した。ヤヒヤはアブドッラーの孫。

 巡礼者たちが石を投げ終わると、スーファたちは丘の両側を防ぎ、人びとを引き止めた。そこで巡礼者たちは、「スーファよ、出発する命令を下してください」、と頼んだ。スーファたちが離れるまで、誰一人も巡礼者たちは出発することはできなかった。スーファたちが石投げ場から立ち去ると、人びとは続々と出発した。この慣習は、スーファの血統が断絶するまで継承された。スーファの血統が断絶すると、その役割と慣習は、一番近い親族へと代々受け継がれた。先ず、サアド・イブン・ザイド・マナート・イブン・タミーンの部族に継承され、その後、サアドの部族の中のサフワーン・イブヌル・ハーリス・イブン・シジュナ家の者たちへと継承された。サフワーンは、アラファから離れる許可を巡礼たちに与え、この権利はイスラームの到来まで彼の息子たちによって維持され、カリブ・イブン・サフワーンがサフワーン家最後の継承者となった。

 アウス・イブン・タミーム・イブン・マグラア・アッサアディは、次のように詠んだ。

 「巡礼者たちはアラファから立ち去ることはなかった、

 許可をください、おお、サフワーンの家族よ、と懇願するまで」。