2012年7月11日水曜日

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(73)

ジュルフム族とザムザムの泉の埋め立て


 ズィヤード・イブン・アブドッラル・バカーイーが、ムハンマド・イブン・イスハークル・ムッタリビから伝え聞いた話を次のように語った。「イブラヒームの息子、イスマイールの死後、神がお望みになった期間、イスマイールの息子のナービトはカアバを管理し、その後はムダード・イブン・アムル・アルジュルフミが管理した」。

イスマイールとナービトの子孫は、彼らの祖父ムダード・イブン・アムルと、ジュルフム族出身の彼らの母方のおじたちと共にいた。

 ムダード・イブン・アムルの娘ラアラが、イスマイールの妻、ナービトらの母親。

 当時、ジュルフム族とカトゥーラア族は、マッカに住むいとこ同士の部族であった。彼らはイエメンから一緒にやって来て、ムダードがジュルフム族を統治し、アッサマイダがカトゥーラア族を統治していた。彼らがイエメンを離れた当時は、イエメンでは、部族長がいない一族が旅立つことは認められなかった。マッカにたどり着いて、水と樹木に恵まれた街を眺めると、彼らは喜び、定住した。ムダード・イブン・アムルは、ジュルフムの民と共にマッカ北部のクアイキアーン高地に定住を決めて、その地にとどまった。アッサマイダはカトゥーラアの民と共にマッカ南部のアジヤード低地に定住を決めて、その地にとどまった。ムダードは、北部からマッカに入る人びとから十分の一の税を、アッサマイダは、南部からマッカに入る人びとから十分の一の税を徴収した。彼らは互いに交わらず、互いの領地にも入ろうとしなかった。

 その後、ジュルフム族とカトゥーラア族の間で紛争が発生し、両者は覇権を争った。そのころムダードは、イスマイールとナービトの子孫を味方につけ、アッサマイダに対抗してカアバを管理していた。両部族の間で戦いが始まった。ムダードは、歩兵隊を率いてクアイキアーンから出陣した。彼らは槍や革の盾、剣や矢筒をガチャガチャと鳴らせて武装し、アッサマイダの軍団めがけて、進軍した。この史実が、クアイキアーン〔ガチャガチャ〕の語源、と言われている。一方アッサマイダは、アジヤードから騎兵隊を率いて進撃し、彼の騎馬軍団が駿馬(ジヤード)で編制されていたことが、アジヤードの語源、と伝えられる。両軍はファーディフの地で激突し、激しい戦闘の後、アッサマイダは殺され、カトゥーラア族は、屈辱に甘んじた。この史実が、ファーディフ〔屈辱〕の語源と言われている。戦いの後、人びとは平和を熱望して、マッカ北部のアルマタービハ谷に行き、そこで和平を取り交わし、ムダードの権力に降伏した。ムダードが権力を保持し、主権者の地位にあった期間、彼は家畜を殺して人びとに食物として与えた。人びとはそれを料理して食べたので、それがマタービハ〔調理場〕の語源と言われている。一部の有識者は、トゥッバアの民がそこを根拠地とし、家畜を殺して施し物としたことがマタービハの語源である、と主張している。ムダードとアッサマイダの紛争は、マッカで最初に犯された、明白な不正行為であった、と言われている。

 その後、神は、イスマイールの子孫の数を増やし、ジュルフム族の彼らのおじたちは、カアバ神殿の管理者やマッカの統治者を務めた。イスマイールの子孫たちは、血族の絆を尊重し、聖域内で不正行為や闘争、殺人が発生しないよう努めたため、彼らが権力争いをすることはなかった。マッカがイスマイールの子孫たちにとって狭すぎるようになると、彼らは外の土地に散らばっていき、彼らがほかの土地の人びとと争わねばならないときには、神は、信仰深く敬虔な彼らに勝利を授けられた。

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