2012年5月31日木曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(18)

アラブとしての覚醒(3)


 略奪で血が流されたとしても、それが経済行為であれば、「血の代償金」という経済的な手段で解決できた。代償金の額は、砂漠で最も価値の高い財産、ラクダの数で数えられた。男一人の「血の代償金」はラクダ十頭、との記録が残されている。抗争が破局的になる前に、第三者の有力族長が必ず仲裁に入った。死傷者の数が少ない方の部族が、死者の数の差だけ代償金を支払って平和が回復される。

 無制限の殺戮を抑止する究極の安全弁が、神聖月の掟だった。ズルカアダ(十一)、ズルヒッジャ(十二)、アルムハッラム(一)と、年央のラジャブ(七)月は、禁断の月とされ、この期間に血を流すことは、神々の怒りを招く最悪の犯罪とされた。アラブは、行動の自由が保障される神聖月に、交易や巡礼に励み、詩のコンテストを開いた。

 正義の貫徹と名誉の保全に不可侵の価値を置くアラブ族の間では、むしろささいな口論、軽率な行動が、双方の部族を滅亡させる破局的な抗争の原因となる。五世紀から六世紀にかけて、半世紀の長きにわたって続いた「バスースの戦い」は、そんな争いだった。

 北東アラビアを領域とするタグリブ族とバクル族は、南アラビア出身の先祖を同じくする、とりわけ親密な兄弟関係にあった。ラクダ同士のいさかいから、タグリブの族長がバクル族の保護下にあった老婦人の雌ラクダに矢を放った。老婦人の友人、バスースという名のバクル族の婦人がこれを見て、ベールを引き裂き、顔を打ちながら、「何という侮辱、恥、この部族は客人を庇護できないというのか」、と叫び、報復を挑発した。タグリブの族長の義兄弟で、バスースの甥でもあった男が族長を殺し、部族間抗争が始まった。

 弱い立場にある老婦人が侮辱されることほど、その部族にとって正義に反し、名誉を傷つけられることはなかった。しかも雌ラクダは、人の生命の維持に不可欠の財産だった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(17)

アラブとして覚醒(2)


 略奪が彼らの経済活動だった。経済活動である以上、彼らが順守すべきルールが存在した。共通の規範、アサビーヤに基づく国際法である。彼らが、放浪のために放浪し、略奪のために略奪する無法者の集団であったならば、種の保存は不可能だったであろう。

 飢餓の砂漠では、一家族だけでは生存できない。多数の家族、親族が連帯して血縁氏族を構成、氏族が連帯して支族を構成、支族が連帯して部族、部族連合を構成する。生存競争を勝ち抜くため、構成員は部族の連帯のために絶対的な忠誠、服従を誓う。日本の武士道に相当するアラブの美徳、部族の連帯意識は、極限状態の砂漠で、検察・裁判制度の役割を果たし、無制限の略奪、破壊、殺戮を抑止する安全弁の機能を果たしていた。

 例えば彼らの間では、保護の誓約という、弱い立場にある者の安全を保障する制度が確立していた。ある部族員がある者を、「この人は私の保護下にある」、と公衆に誓約する。何人もこの被保護者に手を下すことはできない。被保護者に敵対する者は、保護者の部族全体を敵にしなければならなかった。

 部族員が、同一の部族の連帯に忠誠を誓う部族員を殺害することほど重大な犯罪はなかった。この犯罪者は、部族の連帯のらち外に置かれ、彼を保護する者は一人もいない。飢餓の場所で孤立する者は、「部族もなく、法もなく、炉もなき者」(ホメロス)となり、死を待つしかない。
 略奪するとき、流血は厳粛に戒められた。血の害に報いるに、血の害をもって報いる返応報法の下では、流血は「血の復讐」の連鎖を招き、種族を滅亡させる消耗戦争に至るからだ。返応報法は、過剰な報復をむしろ制限する効果を持った。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(16)

アラブとしての覚醒


 共通の伝承を共通の言葉で語るようになると、彼らは詩文学を高度に発達させた。セム語はその独特の言語体系によって、美しい韻を踏むことを容易にする。また、大音声で朗誦すれば、セム語の韻は一層、効果を発揮し、聴衆を陶酔させ、抑え難い感動を与える。

 詩人たちが頌詩(しょうし)で称賛したのが、アラブの至高の美徳、すなわち部族のアサビーヤ(連帯意識)だった。吟遊詩人たちは、アーダムやイブラヒームにまでさかのぼる所属部族の純粋な血統、勇猛心、忠誠心、誓約の厳守、正義の貫徹、名誉の保全、弱者や貧者に対する惜しみない援助、気前のよい客人接待、英雄的な遠征と勝利を称揚してアラビア中を逍遥した。

 聴衆に抑え難い衝動を与えることで比類のない才能を発揮した詩人は、何か霊的な、神がかり的な超能力者として畏怖された。族長たちは、超能力を持つ詩人を抱えようと競い合った。お抱え詩人によって敵対部族を誹謗、中傷して貶めることができるならば、戦わずして情報戦で敵に勝利できるからである。

 つまり詩と詩人は、現代の情報機関の役割を果たしていた。彼らの活躍によって、アラブの美徳、部族のアサビーヤは、アラビア語を話す、アラブ諸部族が共有する普遍の道徳・倫理規範となった。こうしてアラビア半島の諸部族は、普遍の価値観、社会規範を共有する一つのアラブとして覚醒した。

 遊牧の部族は、明確ではないが、暗黙のうちに了解されたおぼろげな勢力圏内を、牧草と水を求めて周遊する。諸部族の間には、現代の国際関係に似た関係が成立、生存のために合従連衡が繰り返された。

 生物がほぼ死に絶える砂漠では、定住地のような生産活動がない。彼らが困窮したときどうするか。物乞いという言葉を知らない誇り高い民族は、死するか、さもなくば隣人から奪い取ることしか知らない。

2012年5月29日火曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(15)

アラビア半島のアラブ化(3)


 そのころ、アラビア半島にはアラビア語を話す多数のユダヤ教徒、キリスト教徒が居住していた。マディーナと呼ばれるようになる前のヤスリブや、イエメンで、肥沃な農地を耕し、鍛冶として刀剣、甲冑を鍛えていたのはユダヤ人だった。イエメンとアラビア砂漠の境にあるナジュラーンは、キリスト教の中心として繁栄していた。

 聖書の物語は、アラビア半島で共通の伝承になっていた。コーランは、アラビア半島西部の伝承をアラビア語で編纂したものなのだ(サリービー)。

 悠久の昔から、マッカには、石を積み上げただけの簡素な神殿があった。子ヤギが飛び込んで入れるほどの高さしかなかった。屋根はなく、布の覆いが掛けられているだけだった。伝承では、この神殿は、イブラヒーム・イスマイール父子が創建した、と信じられていた。

 紀元一世紀後半に活躍したユダヤ人の著述家フラウィウス・ヨセフスは、アブラハムの側女から生まれたイシュマエル(イスマイール)がアラブ人たちの始祖であり、彼らはユーフラテス河から紅海の間に住んでいる、と書いている。

 アラブの系譜学者は、ユーフラテス河と紅海の間に住むイシュマエルの子孫・北アラビア人を、「アラブ化されたアラブ=アーラブ・アル・ムスタアリバ」、あるいは「アドナーン」とする。

 創世記一〇章二二―二八節によれば、セムの息子のアルパクシャド、その息子のシェラ、その息子のエベル、その息子のヨクタン、その息子がシェバ(サバ)であることから、北アラビア人より古い民族であるイエメン出身の南アラビア人を、「純血のアラブ=アーラブ・アル・アリバ」、あるいは「カハターン」(ヨクタンのアラビア語名)とする。

 日本の武士たちが清和源氏、桓武平氏を名乗ったように、血統を誇るのは人間の性である。セム族は、しばしばアダム(アーダム)にまでさかのぼる系譜を語るのだ。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(14)

アラビア半島のアラブ化(2)


 モンスーン気候帯に入るイエメンは、周期的な降雨に恵まれる。西洋と東洋を中継する貿易で繁栄し、農産物の豊かなこの地を、ギリシャ人やローマ人は、「幸福のアラビア」と呼んだ。ダムが決壊してからは、「幸福のアラビア」どころか、不幸なアラビア、となった。過剰な人口は、はけ口を求めて北に、東にと移動した。海を渡って植民地エチオピアに移住した部族もあった。

 彼らがどこに行こうとも、そこには北アラビア語を話す先住部族がいる。もともと砂漠が養える人口には限りがあるので、そこでも人口が過剰となる。あふれた部族は、四方に押し出されていく。そこで、広大な砂漠で、「押し合いへし合いの争いが起こるのである」(アラビアのロレンス)。

 アラブの伝承家アスマーイは、この押し合いへし合いの争いを次のように記している。

 南アラビアの諸部族は、移住した「その地の先住民を略奪することなくそこに入ったことはなかった。ホザーア族は、ジュルフム族からマッカをもぎ取った。アウス族とハズラジ族は、ユダヤ人からマディーナをもぎ取った。ムンズィル家は、イラクをそこの人々から占領した。ジャフナ家はシリアを占領して支配した。イムラーン・イブン・アムル・イブン・アーミルの子孫は、ウマーンを占領した。彼らはそれまで、(イエメンの)ヒムヤルの王たちに服従していたのである」。

 ムンズィル家は、イエメンのラフム族の氏族で、紀元三―四世紀にイラクのヒーラに移住して王朝を建設した。ジャフナ家は、南部シリアに移住したガッサーン族の王朝。ペルシャはラフムに、ローマはガッサーンに、補助金を支給して従属国家とし、砂漠から侵入する略奪者を撃退する防波堤とした。

 アラビア半島を渦に巻き込む、押し合いへし合いの人口移動が何世紀間も続くことによって、その予期せぬ結果として、南アラビア人と北アラビア人が融合、もう一つのセム語族が誕生した。

 アラブ人は最も新しいセム族であるが、最もセム族らしい容貌、肉体、精神を持つ。アラビア語は最も新しいセム語であるが、最も古いセム語の特徴を持つ。何世紀もの長きにわたって飢餓の地で純粋培養された砂漠の民は、強じんな肉体と、創造力にあふれる精神的エネルギーを持つ。彼らが砂漠を突き抜け、偉大な文明を同化し、新たな文明を創造する時が満ちていた。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(13)

アラビア半島のアラブ化(1)


 大海原の水門が破れ、天の窓が開く洪水は、肥沃な三日月地帯だけに起きる災厄ではない。生きとし生けるものを、地上からことごとく滅ぼし尽くす破局的な洪水は、イエメンの山岳地帯でも起きた。

 季節の移り変わりに恵まれた遊牧の民は、温潤な冬と春に砂漠や草原を周遊し、乾期の夏から秋にかけては山中にこもる。南アラビア語を話すサバ人は、そのような部族だった。中央アラビアにいたヨブを襲ったサバ人は、まだ定住してはいなかったのであろう。

 彼らは紀元前八世紀、イエメンの山中に定着し、高度の文明を誇る商業国家を建設した。彼らは、インドのスパイス、南アラビアと東アフリカ産の乳香、没薬(もつやく)を商う中継貿易で富を蓄えた。燃やすと芳香を発する乳香と没薬は、メソポタミアとエジプトの宮殿で、王侯貴族に珍重されていた。彼らは東アフリカに進出し、そこに植民地を開拓した。これが南アラビア語に近いアビシニア語を話す、エチオピアの起源である。

 彼らは国際貿易に優れていただけではない。土木建築技術でも優れた才能を発揮した。マリブの巨大貯水ダムは、紀元前千年紀の中葉に完成、それから千年の間、稼動し続け、耕作地を潤した。

 それは、紀元後一世紀、あるいは二世紀の出来事と考えられている。このダムが決壊した。サバ王国は紀元前二世紀に滅亡、その後に興ったヒムヤル人の王国は、サバ人ほどの技術をもってはいなかったらしい。修復されたダムはまた決壊した。コーラン三四章(サバの章)一六節は、この破局的な大洪水を神罰として言及している。

2012年5月27日日曜日

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(12)

伝承の共有(3)


 恐らく故郷を同じくするほかのセム族にとって、ヘブライ人が書いた創世記、出エジプト記を理解することは、さして難しいことではなかったに違いない。

 すなわち、洪水とノア(アラビア語のヌーホ)の箱舟、アブラハム(イブラヒーム)とハガル(ハージャル)の息子イシュマエル(イスマイール)、モーセ(ムーサ)とファラオ(フィルアウン)、神罰によって滅亡したロト(ルート)の民・ソドムとゴモラ、などなどの物語は、アラビアを含む肥沃な三日月地帯で、共通の伝承だったのだ。

 イスラームの聖典コーランに、これらの物語がふんだんに盛り込まれていても、それは当たり前のことなのである。

 第一次世界大戦の時、アラブの反乱を指導したアラビアのロレンスは、次のように述懐している。マッカやターイフの周辺には、「イエメンから出てきた五十におよぶ部族たちに関係ある思い出や、地名がたくさん見られる。そしてそれらは、また今でもナジド(アラビア半島中央)やジャバル・シャンマルやハマド(半島北部の中央)のみならず、シリアやメソポタミアの周辺地帯にさえ見いだされる」。

 移住者は新天地に故郷の名をつける。彼らはまた、伝承も携えて行く。イギリス系アメリカ人が、新天地を「ニューイングランド」、と称したように。



<コラム 1> セム語の語根

 セム語族のすべての言語は、三つの子音から成り母音が表記されない語根から、その語根の意味に関連するすべての言葉が派生する、という共通の構造を持っている。これをアラビア語を例にとって説明してみよう。

 「書く」という意味の語根は、ktb(كتب)と表記し、「カタバ」と発音し、三人称、単数、男性、過去形、すなわち「彼は書いた」を意味する。これを基本形として、ktbt(كتبت)、「カタブト、私は書いた」、「カタブタ、あなたは書いた」(男性形)、「カタブティ、あなたは書いた」(女性形)、「カタバト、彼女は書いた」、というように、語尾に子音のtを付加し、その子音の発音を区別するだけで人称を変化させる。

 複数形には、二人の場合と、三人以上の場合があり、三人以上のときは、「ktbna(كتبنا)、カタブナー、私たちは書いた」、「ktbtm(كتبتم)、カタブトム、あなたたちは書いた」(男性形)、「ktbtn(كتبتن)、カタブトンナ、あなたたちは書いた」(女性形)、「ktbwu(كتبوا)、カタブー、彼らは書いた」、「ktbn(كتبن)、カタブナ、彼女たちは書いた」、というように変化する。

 時制には過去形と半過去(未完了)形しかなく、半過去形は、「yktb(يكتب)、ヤクトブ、彼は書く」、「aktb(أكتب)、アクトブ、私は書く」、「tktb(تكتب)、タクトブ、あなたは書く」(男性形)、「tktbin(تكتبين)、タクトビーナ、あなたは書く」(女性形)、「tktb(تكتب)、タクトブ、彼女は書く」というように、語頭に子音を付加することによって人称を変化させる。

 「書く」ことに関連するすべての名詞もこの語根から派生する。例えば、「ktab(كتاب)、キターブ、書物」、「ktab(كتاب)、クッターブ、コーランの学校」、「mktb(مكتب)、マクタブ、事務所、机」、「mktba(مكتبة)、マクタバ、図書館、書店」、「katb(كاتب)、カーティブ、書記、秘書、作家」などである。

 しかも、セム語族の諸言語は、同じ意味、あるいは類似の語根を多数、共有している。例えば、yhwという語根の母音を変化させると、yahawe(ヤハウェ、ユダヤ教の神の名)、yehowa(エホヴァ、キリスト教の神の名)となる。またヘブライ語の「住む」という意味の語根は、hsrで、アラビア語では、hdr、である。一つのセム語に精通した人であれば、hsrも、hdrも、「住む」という意味の語根であろう、と容易に推測がつくのである。

 音位転換はセム語だけの特徴ではないが、abcという語根が、bac、あるいはacb、cbaというように、位置が入れ替わることである。エジプトのカイロ方言のアラビア語で、zwgは、一対あるいは一組の一方を意味する。zawgy(カイロ方言ではザウギー、正則アラビア語の場合はザウジー)といえば「私の夫」、ザウガティー(ザウジャティー)といえば「私の妻」、つまり配偶者を意味する。これがレバノン方言のアラビア語では、gwzに音位転換する。配偶者は、gawzy(ジャウズィー、夫、妻はジャウザティー)になる。つまり、このような音位転換によって、セム語では、ハビル、イブリ、アリビ、アラブは、「砂漠の遊牧民」という、同一の意味を持っているのである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(11)

伝承の共有(2)


 アラブという言葉の語源は、人種や民族の違いを問わず、定住生活者と対比して、砂漠の遊牧民を意味するセム語である。アッシリアの年代記は、諸王たちが、都市や隊商を襲撃する野蛮な「アリビ」を懲らしめた、と繰り返し語っている。

 また古代メソポタミア、エジプトの書簡や碑文に「ハビル」、「アピル」と呼ばれ、セム語を話し、凶暴で、略奪を得意とする砂漠の部族が頻繁に登場する。彼らは、人種・民族の違いに関係なく、定住せず、国家権力に服従しない、社会からはみだした無法者の集団だった。彼らが職に就くときは、傭兵だった。聖書の記述は、イブリ(ヘブライ)がある時、ある所で、そのような集団に属していた、と語っている。例えば創世記十四章で、アブラハムと改名する前のアブラムは、ソドムの傭兵隊長として登場する。

 セム語の特徴は音位転換することである。ハビル、イブリが音位転換すれば、アリビ、アラブに変化する(コラム1を参照)。

 歴史学者カマール・サリービーは、ヘブライ語とアラビア語の固有名詞学、とくに地名学を駆使して、ヘブライ人の約束の地はカナン(パレスチナ)ではなく、現代のサウジアラビアの南西部、イエメンの北に位置するアシールとヒジャーズ地方だった、と考えている。アシールとヒジャーズに点在する多数の地名と、聖書のカナンの諸地名が一致しているからだ。例えば、「いと高き神」の祭司でもあり、王でもあるメルキゼデクの王国「サレム」(創世記十四章)という地は、アシールにもある。すると「いと高き神」は、そこの部族神だったことになる。

 ヘブライ人を含め、セム語を話す諸民族がアラビアの出身であることを前提とすれば、これは珍説でも奇説でもない。アシールに発し、肥沃な三日月地帯を横断して約束の地カナンに移住した遊牧の部族が、彼らの彷徨の旅を回想して聖書に記したのであろう。

 そのうち最も原初の創世記と出エジプト記の舞台が、アシールとヒジャーズだとしても、それは十分、論理的なのである。少なくとも、創世記と出エジプト記がアラビア半島西部の伝承をヘブライ語で編纂したもの、という仮説を、証明する資料はないが、それを否定する資料も存在しないのである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(10)

伝承の共有


 セム族の諸言語は、原セム語の方言である。一つのセム語に精通すれば、ほかのセム語を理解するのは容易なことだ。また天幕の住人が定住する過程は、すべてが敵対的であったわけではない。定住民は周辺の半遊牧民と血縁関係、あるいは同盟関係にあった。半遊牧民はさらに深奥の砂漠の民と同じ関係にあった。この関係をさかのぼっていくと、ヘブライ人とアラビア語を話すアラブ人は、いつかどこかで、セム族の故郷に近い地で、隣人のような関係にあったと考えられる。

 聖書には、ヘブライ人が砂漠で過ごした原風景が、ふんだんに描かれている。多数の登場人物がヘブライ人なのか、アラブ人なのか区別がつかない。例えば、アブラハムの息子の、イサクの双子の息子の、ヤコブの兄エサウの息子たちのほとんどは、アラブ人である(創世記三六章一〇―一四節、歴代誌上一章三五―七節)。

 同胞に乱暴を働いていたエジプト人を殺したモーセは、シナイ半島の東、アラビア半島の北西部にあたるミディアンに逃れ、そこの祭司の娘と結婚した。祭司のヒツジの群れを追っていたモーセはある時、神の山ホレブに登って主であるヤハウェと契約した。

 モーセを召命したのは恐らく、ミディアン人、すなわち北アラビア人の部族神だった(出エジプト記三章一節)。

 ヨブ記の主人公ヨブは、明らかにアラブ人のアイユーブ(ヨブのアラビア語名)だった。神はサタンに唆されてヨブに信仰を試す試練を課した。主は最初の試練で、シェバ人、カルデア人にヨブを襲わせてラクダ、ヒツジ、ロバほかの全財産を奪った。カルデア人は、前十一世紀ころ北東アラビアから南メソポタミアに侵入したセム族である。シェバは、南アラビア語を話したイエメンのサバ人で、彼らの王の一人は、知恵者ソロモンを試そうとしてエルサレムにやって来たシェバの女王である。

 義の人ヨブは、アラビアの砂漠にいて、北と南の部族によって略奪されたのだ。

 中世ユダヤ人聖書学者イブン・エズラと、近世ユダヤ人哲学者スピノザは、ヨブ記はヘブライ語以外の言葉から翻訳されたもの、と考えている。

2012年5月26日土曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(9)

セム族の文明(2)


 セム族は、凶暴な侵入者ではあったが、文明の破壊者ではなかった。最初のセム族の王朝を創設したのは、羊飼いの息子で、宮廷酌夫から身を起こしたアッカドのサルゴン王である。前十八世紀、バビロンのハンムラビ王は、世界最古の立法者の一人となった。「目には目を、歯には歯を」――返応報法、あるいは同害法といわれるハンムラビ法典は、復讐を正当化するのではなく、制限するための法だった。砂漠を突き抜け、三日月地帯を横断、約束の地カナン(パレスチナ)に定住した遊牧民の子孫ソロモンは、イスラエルの王国を極盛期に導いた。

 彼らは、セム族ではないシュメール人から、家を建てて定住すること、灌漑用水路を掘って農作物を栽培すること、とりわけ文字を書くことを学んだ。フェニキア人はアルファベットを考案して、文字の使用を簡素化した。イスラエル人はヘブライ語聖書(コラム2を参照)を記し、恐らく世界初の一神教徒となった。ユダヤ教の一派として出発したキリスト教徒は、一神教を世界宗教の一つに高める土台を敷いた。

 これは、現代人がいまだに明確に認識してはいないことなのだが、肥沃な三日月地帯はセム族の文明の舞台であり、彼らが西洋文明の礎を築いたのである。

 イブン・ハルドゥーンによれば、人間の性格は、習慣や慣れ親しんできたものの賜物である。もって生まれた性質、気質などというものはない。飢餓という極限状態に慣れ親しんできた砂漠の民は、より洗練された豊かな生活、すなわち進歩を希求してやまない。彼らは、文明を受容しさらにそれを進化させる創造力にあふれていた。メソポタミアの文明は、砂漠に源を発したのである。こうして、アラビア半島を含む肥沃な三日月地帯では、天幕に住む遊牧の民が洪水のような集団となって定住地に移動することが、人類が記憶にとどめていない時代から続いていた現象だった。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(8)

セム族の文明


 人類の記憶が定かではない太古の昔から、実り豊かな二大河の渓谷に人の流れが注いでいた。起源が不明のシュメール人はどこかから、征服者、支配者としてそこにやって来た。恐らくシュメール人よりも以前から、牧草と水を求めて、西と南の砂漠から、天幕に住みヒツジを追う部族が、洪水のように侵入を繰り返していた。

 彼らはシュメール人に代わって、国家と王朝を建設した。

 前三千年紀後半からおよそ二千年の長きにわたってメソポタミアで興亡した諸民族の王朝は、一つの際立った特徴を共有していた。彼らが使っていた言語はすべて、三つの子音からなる三人称、単数、男性形の、動詞の過去形を、語根と呼ばれる基本形とする(コラム1を参照)。動詞の人称変化は同一の形式をとり、人称代名詞、血縁を示す名詞、数詞、身体の部位を示す名称などが著しく類似している。

 すなわち、これらの民族は、アッカド・バビロニア語、アッシリア語、カルデア語、ヘブライ語、アラム(シリア)語、フェニキア語、アラビア語、エチオピア(アビシニア)語を話す、セム語族に所属していた。

 いまだ考古学によって実証されてはいないが、彼らの祖先、単一の種族としての原セム族は、先史時代のある時期、ある場所に居住しており、そこからセム語諸族が分かれていった、との推測が成り立つ。セム族の故郷がどこにあったのか、東アフリカ、小アジア、南メソポタミアなどの説がある。

 だが、アラビア半島のどこか、というのが一番もっともらしい。かつてのアラビアは緑の豊かな大地であったという。ヨーロッパを覆っていた氷河が北に退くと、アラビアは乾燥し、砂漠が広がった。砂漠が養える人口には限りがある。三方を海に囲まれた過剰人口は、はけ口を求めて北に移動せざるを得なかった。

2012年5月25日金曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(7)

文明のゆりかご、アラビア砂漠(2)


 生物がほぼ死に絶える砂漠は、飢餓の場所である。ラクダを追う遊牧の部族は、勇気に導かれてその奥深く入って行く。極限の状態では、人間は単独で生存できない。砂漠の民は必ず集団を構成し、アサビーヤ(連帯意識)という至聖の絆で融合する。

 城壁や城門を持たない彼らは、いつも武器を持ち、注意深く四方を警戒する。極限状態で彼らは次々に世代を生み、勇猛さは彼らの固有の性質になってしまう。彼らは、叫び声を聞き、不安に襲われたときにこの本性を発揮する。

 知性を伴わない勇気は蛮勇にしかすぎず、彼らは目的もなく、ただ放浪のために放浪する流浪の民ではない。彼らは、飢餓を生き残るため、新緑の牧草と水を求めて、常に全身、全霊を傾けるよう強制される。

 砂漠は、人々が想像するような単調な世界ではない。突然の状況変化、未知に遭遇したとき、指導者のささいな判断ミスは部族全体を窮地に陥れ、知力、判断力に欠ける部族の生存はおぼつかないであろう。

 砂漠での窮乏生活という裁可は、知的好奇心にあふれる鋭い感覚、知識に対するあくなき向上心、あらゆる危機に対応できる柔軟な潜在能力を、天幕の住人に気質として植えつけてしまうのである。

 歴史家フィリップ・K・ヒッティによれば、アラビア砂漠の遊牧生活は、「デトロイトやマンチェスターの工業主義と同じくらい、科学的生活様式なのだ」。

 文明とはすなわち、知的想像力にあふれる、人間精神の状態のことである。この類まれなる才能に恵まれたシュメール人は、先史時代のどこかで科学的な遊牧生活を過ごしていた。シュメール文明の遺跡から、彼らにとってヒツジが非常に重要な動物であったことが発見されている。

 考古学者ジャケッタ・ホークスは、シュメール人の頭がヒツジの群れでいっぱいであったことは、彼らがかつて遊牧の民であったことを示している、としている。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(6)

預言者誕生以前のアラビア

文明のゆりかご、アラビア砂漠


 「文明はシュメールに始まる」、という。

 人は、古代文明の偉大さを知り、畏敬の念を禁じ得ない。そこに人間生活の進歩、幸福、輝きを発見し、限りないあこがれを抱く。そこで人々は、文明という概念、現象、歴史を具体的に、厳密に、かつ知的に探求しようと献身を重ねてきた。

 人類最古の文明は、「肥沃な三日月地帯」、あるいは「メソポタミア」と呼ばれる地に誕生した。そこは世界地図で見ると、イラクのペルシャ湾岸から、ティグリス・ユーフラテス河を北西にさかのぼり、シリア、レバノン、パレスチナに湾曲する弓張月の形をしている。出身を知られていない謎の民族シュメール人は、この弓張月の下弦にあたるイラク南部に定住、紀元前四千年紀、地上に初めて都市国家群を建設した。それ以来、文明とはすなわち都市、都会を意味するようになった。

 非文明的なるものは未開、野蛮と見なされる。東方のイラン高地からやって来て、殺戮と略奪をほしいままにする蛮族を、シュメール人は「山の龍」と呼んで恐怖した。南西のアラビア砂漠からは、ラクダを操る凶暴で剽悍な遊牧民が絶えず押し寄せ、都会人を苦しめた。聖書に「ノアの箱舟」として描写されているように、この三日月地帯で最悪の災厄は洪水だった。シュメール語で、災害と洪水は同じ意味で使われていた。やがて、アラビア砂漠からの無法者の侵入を、「洪水」と言うようになった、と主張する研究者さえいる。

 未開の砂漠は常に死のイメージで語られてきた。そこは不毛で無法な暗黒の世界である。イザヤ書三十章六節は砂漠を、「ほえたける雌獅子(めじし)や雄獅子(おじし) (まむし)や、飛び回る炎の蛇が住む 悩みと苦しみの道」(日本聖書協会新共同訳「聖書」)、と描く。神話では砂漠は、悪霊や妖怪が潜む黄泉の国である。

 都市と文明を自明のごとく同一視する歴史観の下、砂漠の民が文明の発展に貢献した役割は、現代に至るまで、正しく評価されないばかりか、間違って解釈され続けている。輝かしい文明の実像を明らかにしようとする長年の献身にもかかわらず、人類はいまだこの試みに成功していない。

 飢餓、貧困、疫病が克服されたわけではないが、現代ほど人間生活が豊かな時代はかつてない。だが、都会の物質的な豊かさだけが現代人に幸福を保証しはしない。最終破壊兵器、環境汚染、地球温暖化は、人類を破滅の淵に立たせている。すなわち現代人は、文明を創造したシュメール人のような、精神的エネルギーを欠いているがために、文明を維持、継承する能力をも喪失してしまった。文明を衝突させ、破壊しようとする現代人は、前四千年紀のシュメール人ほどには、文明的ではないのである。

 文明はメソポタミアに、何の脈絡もなく突然、発祥したのではない。いかなる都会も単独で、孤立して存在することは出来ず、都市文明の歴史は、その周辺の環境との関連においてのみ理解できる。

 このことを、十四世紀アラブの歴史哲学者イブン・ハルドゥーンは、「砂漠は文明の根源であり、都市はその副産物である」、と言った。

2012年5月24日木曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(5)

まえがき(5)

ムスリム、ノンムスリムを問わず、我々がイスラームについて知ろうとするとき、先ず、唯一の神アッラーから使徒ムハンマドに授けられた啓示を記したコーランを学ぶことになる。イスラーム初期の時代においては、人びとは使徒ムハンマドと同じ時代に生き、神から下された啓示を伝承によって平易に学びとることができたが、やがて時代が過ぎ、人びとはコーランの内容を理解するために、コーランと共にハディース(神の使徒ムハンマドの言行)を知ることが不可欠となった。

 さらに時代が過ぎ、人びとがコーランとハディースを理解することがより困難な状況となった。そこで、当時のアラブの史実や時代背景・環境・文化を知ることによって、コーランとハディースの理解を深め、総体的にイスラームの教えを学ぶようになった。それでは一体、このようなアラブの史実や時代背景を、我々は何から学ぶことができるのであろうか。スィーラ (伝記)と総称される預言者の伝記に関する学問が、その答えである。本書「アッスィーラトン・ナバーウィーヤ」は、数多く著されたスィーラの中で、その完成度と網羅する情報量から、今日においても最古、最高峰の存在である。

日本において、コーランの内容はこれまで様々な日本語訳が出版され、ハディースについても伝承者として著名なブハーリー版とムスリム版について日本語訳を入手することが可能となった。しかしながら、我々が平易にそしてより深くイスラームについて理解するためのスィーラについては、残念ながらこれまで日本語版は存在せず、スィーラ研究は未踏の分野と言っても過言ではない。今回、私たちが本書の全訳を決意した意義はその点にある。本書が、今後の日本におけるイスラーム研究、そしてスィーラ研究に一石を投じることができれば幸甚である。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(4)

まえがき(4)

 本書原典の印刷版としては、ウィストフィルドによるドイツのグーテンゲン版(一八六〇年、全二巻)、エジプトのブーラーク版(ヒジュラ暦一二二五年、全三巻)、エジプトのアルアフバール版(一九九八年、全四巻)が著名である。

 今日、イブン・イスハーク著のアッスィーラトン・ナバーウィーヤとして世界中で読まれている預言者伝は、実際のところ、イブン・ヒシャーム(ヒジュラ暦二一八年没)の校訂版である。イブン・ヒシャームの校訂版の特徴は、イブン・イスハークの原典におけるアーダムからイスマイール(イシュマエル)の時代の記述が割愛されていることである。また校訂版であるため、イブン・ヒシャームは、原典に追記・補足を加えているが、原典本文に対しては、上記の割愛以外、無修正で取り扱っている。

 今回、本書の日本語訳にあたり、本書の完全版の原典はイスタンブールのキョプルル図書館に保管(管理番号一一四〇されているという説や、エジプトのダールル・クトゥブ図書館内のアハマド・タイムール・パシャの蔵書中に彼の書が保管されているという別説に基づき、私たちは彼の書物を確認した。両図書館の書物を確認した結果、現存するすべてのアッスィーラトン・ナバーウィーヤは、アーダムからイスマイールの時代の記述が割愛されていることが判明した。この理由により、ダールル・クトゥブの蔵書資料からの日本語訳である本書も同時代の記述を割愛していることをご了承いただきたい。

ムスリム、ノンムスリムを問わず、我々がイスラームについて知ろうとするとき、先ず、唯一の神アッラーから使徒ムハンマドに授けられた啓示を記したコーランを学ぶことになる。イスラーム初期の時代においては、人びとは使徒ムハンマドと同じ時代に生き、神から下された啓示を伝承によって平易に学びとることができたが、やがて時代が過ぎ、人びとはコーランの内容を理解するために、コーランと共にハディース(神の使徒ムハンマドの言行)を知ることが不可欠となった。

 さらに時代が過ぎ、人びとがコーランとハディースを理解することがより困難な状況となった。そこで、当時のアラブの史実や時代背景・環境・文化を知ることによって、コーランとハディースの理解を深め、総体的にイスラームの教えを学ぶようになった。それでは一体、このようなアラブの史実や時代背景を、我々は何から学ぶことができるのであろうか。スィーラ (伝記)と総称される預言者の伝記に関する学問が、その答えである。本書「アッスィーラトン・ナバーウィーヤ」は、数多く著されたスィーラの中で、その完成度と網羅する情報量から、今日においても最古、最高峰の存在である。

2012年5月23日水曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(3)

まえがき(3)

 すなわち、唯一神の信仰と、歴史認識の革新は、自由かっ達で、知的好奇心にあふれる人間精神を育み、歴史の叙述のみならず、すべての学問分野で、アラブの創造力を刺激し、イスラーム文明興隆の起爆剤となったのである。帝国の最高権力者カリフは、十八世紀西洋の啓蒙君主のごとく振る舞い、学問を奨励し、学者を保護、支援、自らも勉学に励み、万巻の書物を国家財産として図書館に収蔵した。

 正統カリフ(預言者ムハンマドに次ぐ四人の後継者)の時代(西暦六三二―六六一年)が終わるまで、アラブ世界ではコーランとアラビア語文法書を除いて、書物として記述することは一切許されなかった。これは、書物が氾濫することによって、コーランの原典としての神聖さ、純粋性が損なわれることを畏れたためであった。しかし、ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィヤ(六六一―六八〇年)の時代になると、カリフ自身が歴史書を編さんすることを提案し、イエメンからウバイド・イブン・シャリーヤを呼び寄せて、彼に歴史書の著述を依頼した。ウバイドの著作「キターブル・ムルーキ・ワ・アフバールル・マーディーン」(諸王と父祖の歴史)は、それまでのアラブ史を初めて編さんしたものであった。

 一方、ウバイドの後に出現した伝承学者たちは、預言者ムハンマドの伝記のみに対象を絞り、ミクロ的観点から詳細な歴史書を著した。このような伝承学者たちの中でも、以下の学者たちがとりわけ有名である。ウルワ・イブヌッ・ズバイル・イブヌル・アッワーム(ヒジュラ暦九二年没)は、預言者の教友(預言者と行動を共にした最初期のムスリム)アッズバイルと、初代正統カリフ、アブー・バクルの娘アスマアを両親に持ち、神の使徒ムハンマドに非常に近い環境で育ったため、彼の歴史書は、アビシニア(エチオピア)とマディーナへの聖遷、バドルの戦いなどのイスラーム初期の史実に関する詳細な記述が特色である。アバーン・イブン・ウスマーン・イブン・アッファーヌル・マダニーユ(ヒジュラ暦一〇五年没)の歴史書は、神の使徒の言行が中心に記述されており、まさしく預言者の伝記と呼ぶべき内容であった。ワハブ・イブン・ムナッビヒル・ヤマニ(ヒジュラ暦一一〇年没)の歴史書の一部分は、ドイツのハイデルベルグ市立図書館に現存している。このほかにも当時の伝承学者として、アースィム・イブン・ウマル・イブン・カターダ(ヒジュラ暦一二〇年没)、シュラハビール・イブン・サアド(ヒジュラ暦一二三年没)、イブン・シハーブッ・ズフリー(ヒジュラ暦一二四年没)、アブドッラー・イブン・アブー・バクル・イブン・ハズム(ヒジュラ暦一三五年没)、ムーサ・イブン・ウクバ(ヒジュラ暦一四一年没)、マーマル・イブン・ラーシッド(ヒジュラ暦一五〇年没)等が有名であった。

 本書の著者であるイブン・イスハーク以前に、上記のように伝承学者たちが預言者伝を書き残しているが、非常に残念なことに、これらの原典は散逸してしまった。イブン・イスハークの預言者伝は、現存する最古の伝記であり、預言者の言行録(ハディース)が中心であるものの、イスラーム以前からの伝承や詩文に至るまで、膨大かつ詳細な出来事を網羅しており、その書は預言者ムハンマドの伝記という範疇を超え、アラブ史の一つの集大成として、現在でも歴史書として広く読まれている。今日に至るまで預言者伝は多数出版されてきたが、イブン・イスハーク以降の著作は、本書を参考引用するものがほとんどであり、本書は、今なお史上、傑出した存在となっている。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(2)

まえがき(2)

 なぜ、イスラーム帝国の最高権力者、カリフ自らが、このような使命を彼に課したのであろうか。それを知るためには、イブン・イスハークが本書を著した当時のアラブの環境が、どのような状況であったかを知らねばならない。

唯一の主アッラーが、ムハンマドを最後の預言者として召命され、彼に最終段階の啓示、イスラームを授けられたことは、人類史上、とりわけアラブにとっては史上最大の出来事であった。アラブの歴史において、イスラームの降臨がなぜ、そのような意義を持つ出来事といえるのだろうか。

人は、主の唯一性と啓示を受け入れ、主のみを崇拝することによって、それまでのあらゆるものへの隷従から初めて解き放たれ、主の被造物である一人の人間としての尊厳を獲得することが可能となる。そしてこのような主からの啓示は、人間に自由と平等をもたらす教えであるため、この教えを受け入れて遵守し、実践することによって、人間は自由と平等をも得ることになる。そればかりではなく、現世のみならず来世における平安を主から拝受することが約束されるため、主の教えを追究することは、真の永遠なる幸福を享受することにつながる、とアラブは考えたからである。

 それまでのアラブ史は、父祖の時代の日々の詳細な出来事や血族の系譜を、父祖から子孫へと、連綿とした口述伝承を残すことによって形成されてきた。しかし、イスラームの出現は、それまでのアラブ史の在り方を根本から変革してしまった。イスラームの啓示が下り、史実として後世に残すべき出来事の重要性も、伝えるべき情報量やその詳細も、飛躍的に増大、拡大した。しかも、情報を精確、確実に伝達するためには、口承ではなく、文字として記録することが不可欠となった。

 それゆえ、従来、自分の部族の歴史のみを継承してきたアラブは、イスラームの降臨以降、ムスリム、ノンムスリムを問わず、アラブ全体で起こる重要な出来事に関する膨大な情報を史実として継承することになり、歴史の蓄積、継承、伝達において、アラブ民族の知的能力を飛躍的に向上させた。口述伝承から記述伝承へと、パラダイムの転換が起き、アラブが知的に覚醒したのである。

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(1)

まえがき(1)

本書はイブン・イスハークによる「アッスィーラトン・ナバーウィーヤ」(預言者の生涯)の、アラビア語原典からの翻訳の第一巻である。本書は、「スィーラト・ラスーリッラーヒ」アッラーの使徒の生涯という別名でも広く知られており、アラブの歴史を知る上で欠かすことのできない、イスラーム世界に限らず全世界においても非常に著名な書である。

アラブ史上、最も著名な伝承学者の一人として知られているムハンマド・イブン・イスハーク・イブン・ヤサール・イブン・ヒヤール(ヒジュラ暦一五二年頃、西暦七六七年頃没、以下イブン・イスハーク)は、イブン・クーサーン、アブー・バクル、アブー・アブドッラー、アルマダニル・クライシィの四つの俗称で呼ばれていた。彼は、カイス・イブン・マクラマ・イブヌル・ムッタリブ・イブン・アブド・マナーフ(マッカ出身のクライシュ族)の奴隷であったが、後に解放された。

 彼の祖父ヤサールは、ヒジュラ暦一二年(ヒジュラ暦は、西暦六二二年を元年とする)に、初代正統カリフ(預言者ムハンマドの後継者)アブー・バクル率いるイスラーム軍が、イラクのクーファ西部のアルアンバールの街近くのアイヌッ・タムル村に入った際に、同村の教会で捕虜となり、マディーナに連れて行かれた。そのような経緯から、ヒジュラ暦八五年頃、ヤサールの孫のイブン・イスハークは、マディーナで生まれた。青年時代をマディーナで過ごしたイブン・イスハークは、ペルシャ人のような非常に美しい風貌の持ち主だったと言われている。やがて彼は、マディーナからエジプトのアレクサンドリアへ、それからクーファ、さらにアルジャジーラ(ティグリス・ユーフラテス両河の間の地)、アッライ(イラン)、アルヒーラと転々と移り住み、最後にバグダッドで亡くなり、アルカイズラーン墓地に葬られた。

以下は、イブン・イスハークが本書を著すことになった経緯である。

ある日、イブン・イスハークは、バグダッドで(一説ではヒーラで)、アッバース朝の第二代カリフであるアルマンスール(在位西暦七五四―七七五年)に謁見した。その時、アルマンスールは息子のアルマフディー(同七七五―七八五年)と共にいた。カリフは息子を指差し、イブン・イスハークに向かって、「彼は誰か、そなたは知っているか」と尋ねた。彼は「はい、存じております。この御方は、カリフのご子息アルマフディー様です」、と答えた。カリフは、「我が息子のために、主がアーダム(アダム)を創造された時から今日に至るまでのすべての出来事を書き記せ」と命じた。当時の学者たちの間で、イブン・イスハークの知性とその能力は傑出した存在であり、その事実はカリフであるアルマンスールも知るところであった。それゆえ彼は、イブン・イスハークにこのような任務を命じたのであった。

やがてイブン・イスハークは、預言者伝を完成させ、カリフのもとへ参上した。彼の書を閲覧したカリフは、「イブン・イスハークよ、そなたの書は長すぎる。概要をまとめよ」とさらに彼に命じ、彼の書を金庫に保管させた。イブン・イスハークは、今度は概要版を編さんし、再びカリフに謁見して、書を献上した。このように、アッスィーラトン・ナバーウィーヤには完全版と概要版の二つの書があったとされている。