2012年5月27日日曜日

『予言者ムハンマドの生涯』第一巻(12)

伝承の共有(3)


 恐らく故郷を同じくするほかのセム族にとって、ヘブライ人が書いた創世記、出エジプト記を理解することは、さして難しいことではなかったに違いない。

 すなわち、洪水とノア(アラビア語のヌーホ)の箱舟、アブラハム(イブラヒーム)とハガル(ハージャル)の息子イシュマエル(イスマイール)、モーセ(ムーサ)とファラオ(フィルアウン)、神罰によって滅亡したロト(ルート)の民・ソドムとゴモラ、などなどの物語は、アラビアを含む肥沃な三日月地帯で、共通の伝承だったのだ。

 イスラームの聖典コーランに、これらの物語がふんだんに盛り込まれていても、それは当たり前のことなのである。

 第一次世界大戦の時、アラブの反乱を指導したアラビアのロレンスは、次のように述懐している。マッカやターイフの周辺には、「イエメンから出てきた五十におよぶ部族たちに関係ある思い出や、地名がたくさん見られる。そしてそれらは、また今でもナジド(アラビア半島中央)やジャバル・シャンマルやハマド(半島北部の中央)のみならず、シリアやメソポタミアの周辺地帯にさえ見いだされる」。

 移住者は新天地に故郷の名をつける。彼らはまた、伝承も携えて行く。イギリス系アメリカ人が、新天地を「ニューイングランド」、と称したように。



<コラム 1> セム語の語根

 セム語族のすべての言語は、三つの子音から成り母音が表記されない語根から、その語根の意味に関連するすべての言葉が派生する、という共通の構造を持っている。これをアラビア語を例にとって説明してみよう。

 「書く」という意味の語根は、ktb(كتب)と表記し、「カタバ」と発音し、三人称、単数、男性、過去形、すなわち「彼は書いた」を意味する。これを基本形として、ktbt(كتبت)、「カタブト、私は書いた」、「カタブタ、あなたは書いた」(男性形)、「カタブティ、あなたは書いた」(女性形)、「カタバト、彼女は書いた」、というように、語尾に子音のtを付加し、その子音の発音を区別するだけで人称を変化させる。

 複数形には、二人の場合と、三人以上の場合があり、三人以上のときは、「ktbna(كتبنا)、カタブナー、私たちは書いた」、「ktbtm(كتبتم)、カタブトム、あなたたちは書いた」(男性形)、「ktbtn(كتبتن)、カタブトンナ、あなたたちは書いた」(女性形)、「ktbwu(كتبوا)、カタブー、彼らは書いた」、「ktbn(كتبن)、カタブナ、彼女たちは書いた」、というように変化する。

 時制には過去形と半過去(未完了)形しかなく、半過去形は、「yktb(يكتب)、ヤクトブ、彼は書く」、「aktb(أكتب)、アクトブ、私は書く」、「tktb(تكتب)、タクトブ、あなたは書く」(男性形)、「tktbin(تكتبين)、タクトビーナ、あなたは書く」(女性形)、「tktb(تكتب)、タクトブ、彼女は書く」というように、語頭に子音を付加することによって人称を変化させる。

 「書く」ことに関連するすべての名詞もこの語根から派生する。例えば、「ktab(كتاب)、キターブ、書物」、「ktab(كتاب)、クッターブ、コーランの学校」、「mktb(مكتب)、マクタブ、事務所、机」、「mktba(مكتبة)、マクタバ、図書館、書店」、「katb(كاتب)、カーティブ、書記、秘書、作家」などである。

 しかも、セム語族の諸言語は、同じ意味、あるいは類似の語根を多数、共有している。例えば、yhwという語根の母音を変化させると、yahawe(ヤハウェ、ユダヤ教の神の名)、yehowa(エホヴァ、キリスト教の神の名)となる。またヘブライ語の「住む」という意味の語根は、hsrで、アラビア語では、hdr、である。一つのセム語に精通した人であれば、hsrも、hdrも、「住む」という意味の語根であろう、と容易に推測がつくのである。

 音位転換はセム語だけの特徴ではないが、abcという語根が、bac、あるいはacb、cbaというように、位置が入れ替わることである。エジプトのカイロ方言のアラビア語で、zwgは、一対あるいは一組の一方を意味する。zawgy(カイロ方言ではザウギー、正則アラビア語の場合はザウジー)といえば「私の夫」、ザウガティー(ザウジャティー)といえば「私の妻」、つまり配偶者を意味する。これがレバノン方言のアラビア語では、gwzに音位転換する。配偶者は、gawzy(ジャウズィー、夫、妻はジャウザティー)になる。つまり、このような音位転換によって、セム語では、ハビル、イブリ、アリビ、アラブは、「砂漠の遊牧民」という、同一の意味を持っているのである。

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