2012年5月31日木曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(18)

アラブとしての覚醒(3)


 略奪で血が流されたとしても、それが経済行為であれば、「血の代償金」という経済的な手段で解決できた。代償金の額は、砂漠で最も価値の高い財産、ラクダの数で数えられた。男一人の「血の代償金」はラクダ十頭、との記録が残されている。抗争が破局的になる前に、第三者の有力族長が必ず仲裁に入った。死傷者の数が少ない方の部族が、死者の数の差だけ代償金を支払って平和が回復される。

 無制限の殺戮を抑止する究極の安全弁が、神聖月の掟だった。ズルカアダ(十一)、ズルヒッジャ(十二)、アルムハッラム(一)と、年央のラジャブ(七)月は、禁断の月とされ、この期間に血を流すことは、神々の怒りを招く最悪の犯罪とされた。アラブは、行動の自由が保障される神聖月に、交易や巡礼に励み、詩のコンテストを開いた。

 正義の貫徹と名誉の保全に不可侵の価値を置くアラブ族の間では、むしろささいな口論、軽率な行動が、双方の部族を滅亡させる破局的な抗争の原因となる。五世紀から六世紀にかけて、半世紀の長きにわたって続いた「バスースの戦い」は、そんな争いだった。

 北東アラビアを領域とするタグリブ族とバクル族は、南アラビア出身の先祖を同じくする、とりわけ親密な兄弟関係にあった。ラクダ同士のいさかいから、タグリブの族長がバクル族の保護下にあった老婦人の雌ラクダに矢を放った。老婦人の友人、バスースという名のバクル族の婦人がこれを見て、ベールを引き裂き、顔を打ちながら、「何という侮辱、恥、この部族は客人を庇護できないというのか」、と叫び、報復を挑発した。タグリブの族長の義兄弟で、バスースの甥でもあった男が族長を殺し、部族間抗争が始まった。

 弱い立場にある老婦人が侮辱されることほど、その部族にとって正義に反し、名誉を傷つけられることはなかった。しかも雌ラクダは、人の生命の維持に不可欠の財産だった。

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