2012年5月31日木曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(16)

アラブとしての覚醒


 共通の伝承を共通の言葉で語るようになると、彼らは詩文学を高度に発達させた。セム語はその独特の言語体系によって、美しい韻を踏むことを容易にする。また、大音声で朗誦すれば、セム語の韻は一層、効果を発揮し、聴衆を陶酔させ、抑え難い感動を与える。

 詩人たちが頌詩(しょうし)で称賛したのが、アラブの至高の美徳、すなわち部族のアサビーヤ(連帯意識)だった。吟遊詩人たちは、アーダムやイブラヒームにまでさかのぼる所属部族の純粋な血統、勇猛心、忠誠心、誓約の厳守、正義の貫徹、名誉の保全、弱者や貧者に対する惜しみない援助、気前のよい客人接待、英雄的な遠征と勝利を称揚してアラビア中を逍遥した。

 聴衆に抑え難い衝動を与えることで比類のない才能を発揮した詩人は、何か霊的な、神がかり的な超能力者として畏怖された。族長たちは、超能力を持つ詩人を抱えようと競い合った。お抱え詩人によって敵対部族を誹謗、中傷して貶めることができるならば、戦わずして情報戦で敵に勝利できるからである。

 つまり詩と詩人は、現代の情報機関の役割を果たしていた。彼らの活躍によって、アラブの美徳、部族のアサビーヤは、アラビア語を話す、アラブ諸部族が共有する普遍の道徳・倫理規範となった。こうしてアラビア半島の諸部族は、普遍の価値観、社会規範を共有する一つのアラブとして覚醒した。

 遊牧の部族は、明確ではないが、暗黙のうちに了解されたおぼろげな勢力圏内を、牧草と水を求めて周遊する。諸部族の間には、現代の国際関係に似た関係が成立、生存のために合従連衡が繰り返された。

 生物がほぼ死に絶える砂漠では、定住地のような生産活動がない。彼らが困窮したときどうするか。物乞いという言葉を知らない誇り高い民族は、死するか、さもなくば隣人から奪い取ることしか知らない。

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