2012年5月23日水曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(2)

まえがき(2)

 なぜ、イスラーム帝国の最高権力者、カリフ自らが、このような使命を彼に課したのであろうか。それを知るためには、イブン・イスハークが本書を著した当時のアラブの環境が、どのような状況であったかを知らねばならない。

唯一の主アッラーが、ムハンマドを最後の預言者として召命され、彼に最終段階の啓示、イスラームを授けられたことは、人類史上、とりわけアラブにとっては史上最大の出来事であった。アラブの歴史において、イスラームの降臨がなぜ、そのような意義を持つ出来事といえるのだろうか。

人は、主の唯一性と啓示を受け入れ、主のみを崇拝することによって、それまでのあらゆるものへの隷従から初めて解き放たれ、主の被造物である一人の人間としての尊厳を獲得することが可能となる。そしてこのような主からの啓示は、人間に自由と平等をもたらす教えであるため、この教えを受け入れて遵守し、実践することによって、人間は自由と平等をも得ることになる。そればかりではなく、現世のみならず来世における平安を主から拝受することが約束されるため、主の教えを追究することは、真の永遠なる幸福を享受することにつながる、とアラブは考えたからである。

 それまでのアラブ史は、父祖の時代の日々の詳細な出来事や血族の系譜を、父祖から子孫へと、連綿とした口述伝承を残すことによって形成されてきた。しかし、イスラームの出現は、それまでのアラブ史の在り方を根本から変革してしまった。イスラームの啓示が下り、史実として後世に残すべき出来事の重要性も、伝えるべき情報量やその詳細も、飛躍的に増大、拡大した。しかも、情報を精確、確実に伝達するためには、口承ではなく、文字として記録することが不可欠となった。

 それゆえ、従来、自分の部族の歴史のみを継承してきたアラブは、イスラームの降臨以降、ムスリム、ノンムスリムを問わず、アラブ全体で起こる重要な出来事に関する膨大な情報を史実として継承することになり、歴史の蓄積、継承、伝達において、アラブ民族の知的能力を飛躍的に向上させた。口述伝承から記述伝承へと、パラダイムの転換が起き、アラブが知的に覚醒したのである。

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