2012年5月23日水曜日

『預言者ムハンマドの生涯』第一巻(1)

まえがき(1)

本書はイブン・イスハークによる「アッスィーラトン・ナバーウィーヤ」(預言者の生涯)の、アラビア語原典からの翻訳の第一巻である。本書は、「スィーラト・ラスーリッラーヒ」アッラーの使徒の生涯という別名でも広く知られており、アラブの歴史を知る上で欠かすことのできない、イスラーム世界に限らず全世界においても非常に著名な書である。

アラブ史上、最も著名な伝承学者の一人として知られているムハンマド・イブン・イスハーク・イブン・ヤサール・イブン・ヒヤール(ヒジュラ暦一五二年頃、西暦七六七年頃没、以下イブン・イスハーク)は、イブン・クーサーン、アブー・バクル、アブー・アブドッラー、アルマダニル・クライシィの四つの俗称で呼ばれていた。彼は、カイス・イブン・マクラマ・イブヌル・ムッタリブ・イブン・アブド・マナーフ(マッカ出身のクライシュ族)の奴隷であったが、後に解放された。

 彼の祖父ヤサールは、ヒジュラ暦一二年(ヒジュラ暦は、西暦六二二年を元年とする)に、初代正統カリフ(預言者ムハンマドの後継者)アブー・バクル率いるイスラーム軍が、イラクのクーファ西部のアルアンバールの街近くのアイヌッ・タムル村に入った際に、同村の教会で捕虜となり、マディーナに連れて行かれた。そのような経緯から、ヒジュラ暦八五年頃、ヤサールの孫のイブン・イスハークは、マディーナで生まれた。青年時代をマディーナで過ごしたイブン・イスハークは、ペルシャ人のような非常に美しい風貌の持ち主だったと言われている。やがて彼は、マディーナからエジプトのアレクサンドリアへ、それからクーファ、さらにアルジャジーラ(ティグリス・ユーフラテス両河の間の地)、アッライ(イラン)、アルヒーラと転々と移り住み、最後にバグダッドで亡くなり、アルカイズラーン墓地に葬られた。

以下は、イブン・イスハークが本書を著すことになった経緯である。

ある日、イブン・イスハークは、バグダッドで(一説ではヒーラで)、アッバース朝の第二代カリフであるアルマンスール(在位西暦七五四―七七五年)に謁見した。その時、アルマンスールは息子のアルマフディー(同七七五―七八五年)と共にいた。カリフは息子を指差し、イブン・イスハークに向かって、「彼は誰か、そなたは知っているか」と尋ねた。彼は「はい、存じております。この御方は、カリフのご子息アルマフディー様です」、と答えた。カリフは、「我が息子のために、主がアーダム(アダム)を創造された時から今日に至るまでのすべての出来事を書き記せ」と命じた。当時の学者たちの間で、イブン・イスハークの知性とその能力は傑出した存在であり、その事実はカリフであるアルマンスールも知るところであった。それゆえ彼は、イブン・イスハークにこのような任務を命じたのであった。

やがてイブン・イスハークは、預言者伝を完成させ、カリフのもとへ参上した。彼の書を閲覧したカリフは、「イブン・イスハークよ、そなたの書は長すぎる。概要をまとめよ」とさらに彼に命じ、彼の書を金庫に保管させた。イブン・イスハークは、今度は概要版を編さんし、再びカリフに謁見して、書を献上した。このように、アッスィーラトン・ナバーウィーヤには完全版と概要版の二つの書があったとされている。

0 件のコメント:

コメントを投稿